緊急事態
結局のところ、紫乃宮エトは人任せにできない性格である。立ち上がれるようになるとすぐにタクシーを呼ぶように吟に言った。いまから吟のバイクに乗った方が早いかもしれないが、しがみついている自信はまったくなかった。
「よければ、私たちが送っていこうか」
赤城が申し出をありがたく受けたエトは、運転席のさくらを見て断ろうかと思ったが後の祭り。
しかし人格とは裏腹に、法定速度越え時速十キロメートル以内の堅実な運転。
エトの状態も徐々に回復してきたところに着信があった。吟の携帯だ。
「オレや。どないしてん」助手席も吟は、前屈みになって声をひそめた。「ああ?だいぶ近くまで来とるで。なんやあかんかったんか。て、おい……切りよった」
「どうしたの、ギン。誰から?」
「警察のお姉さん、ちょっと急いでくれませんか」吟が横のさくらを見て言う。
「急ぐ?じゃあ、サイレン鳴らしちゃう?ショーコォ、いいかなぁ」
「紫乃宮さん、ちょっとだけ運転荒くなるかもしれないけど、大丈夫?」赤城がエトに訊く。
「そんなことより、いまの誰なんだよ、ギン!」エトは背後から助手席の吟の首を絞める。
「いいみたいね。サクラ、急いで」赤城がルームミラー越しにさくらと目を合わせて言った。
「オーケー、りょうかいのすけ!」さくらはアクセルを踏み込んだ。
「サイレンは?」赤城がボソッと言う。
「すぐだからいいっしょ」さくらはオレンジのセンターラインを越えて反対車線に入り、車三台を抜き去った。
吟とエトが裏門で下車した時、陽射しは山の稜線にわずかに名残を止めているに過ぎず、校舎は薄く藍を掃いたようで、窓に明かりもなく暗く沈み込んでいた。
「私たちはここで待っているよ。何かあったら登録した番号に」助手席の脇に立って、赤城が言った。
「本を読むだけだから、大丈夫ですよ」
車酔いか意思酔いか、とにかく最悪の気分ながら、エトは精一杯の笑顔で答えた。
「ラカ、あんた紛らわしいのよ。先生って、この人のこと?」ヒソクの頬が強張る。
「そうだよ?ああ、杜松先生だと思ったの?」ラカはヒソクの声に緊張を感じ取り、茶化すように、「あんたって人見知りだっけ?」
「エフェクタって中立の立場でしょう」
「そうだけど……ヒソクあんた、先生が敵だって言いたいの?」
「さあね。でもあんた、先生とやらの気がわからないわけでもないでしょう」ヒソクがすぐに動けるよう姿勢を整えながら言う。
「先生ってば、人見知りだから」ラカはあっけらかんとしている。
「知り合いだってのはわかる。だが、あの先生とやらの雰囲気はとても和やかとは言えない」日和田が言う。
「確かに強面で愛想ないから勘違いされがちなんだよね」ラカは腕組みをして一人頷く。
「そう言いながら、きみは彼に近づこうとしないね」日和田がささやく。
ラカは無言だ。
この間に相手はゆっくりと四、五メートルまで距離を詰め、立ち止まった。
ヒソクが相手を見据えて言った。「聖堂教会司祭、士郎忠宗。いったい何をしに来たんですか」
「ご挨拶だな。私は可愛い弟子を助けに来ただけだよ」士郎神父の声が響くと、日和田は周囲の温度が下がった気がした。
身構えるヒソクと日和田の目の前に、当直のチグサが進み出た。
「本校生徒でない方は、予約なしに図書館には入れません」その横顔は青ざめて見えるが、彼女は気丈に言い放った。
「そうらしいね。しかし困っているのも、一刻を争うのも事実だ。大人の助力が必要じゃないかね」士郎は不敵な笑みを浮かべる。
「大人の助力なら、もうあります」ヒソクが言った。「お帰りください」
神父は聞こえなかったように何の反応も示さず、ヒソクらの背後、そして左右を見回す。
図書室は井の字型の校舎の一角にあり、廊下はロの字型で、入口に向かって背後と右は廊下、左は階段である。ヒソクらは入口から少し図書室の中、神父は右の廊下と階段の一部が見える辺りにいた。
神父がまた一歩前に出て、左右を窺う。
一向に引き返さない神父に豪を煮やしたのか、チグサがズカズカと歩み寄った。ヒソクもその後に続く。
「通せへんって言うてるやろ?センセーだか神父さんだか知らへんけど、許可のない他所モンはあかんねん」
そのときヒソクが階段に向けて駆け出した。神父は反射的にそれを止めようとしたのか、そちらに身体を向ける。その隙をついてチグサが神父に腕を伸ばした。その手にはスタンガン。門番として実力行使に出たのだ。
電極が神父の身体に届く寸前、チグサは手首を捻られ、床に転がった。
その間もずっと神父の目はヒソクを捕捉していたが、チグサの手からスタンガンを奪い取ったときにはもう、彼女は視界から消えていた。
神父は無言のままチグサにスタンガンの電撃を放った。
「センセッ⁈」ラカが悲鳴に近い声を上げた。
「あれはシノミヤ君じゃないね。妹の方かな?」神父はラカを見た。「イトエ君。シノミヤ君はどこにいる?」
「エトは病院だって言ったじゃないですか」
「病院に連絡したんだがね、いないと言われたよ」
「それじゃ、もうウチにもわかんないですよ」ラカは狼狽して言った。「そんなことより、いったいどうしちゃったんですか?チグサにこんな……ひどいこと」




