キーワード
校舎の壁が橙色に染まっている。
部活帰りの生徒から、ときどき横目で見られることはあったが、特に声をかけられることもなく、三人は正門から高校の敷地に足を踏み入れた。
校舎内に残っている生徒はほとんどいないか、息を潜めるようにして各々の活動に没頭しているようだ。
「土曜だからか?もっと生徒がいるもんだと思っていたんだが」
「進学校ですからね。部活にかける青春ってわけでもないんじゃないですか」ヒソクの答えはそっけない。
「そんなことないだろ、ウチのツレはアレだぞ、インターネット出てるぞ」ラカが食いつく。
「インターハイね」
「百メートルの選手なんだ。今日も走ってるかもしんない。学校まあまあ近いからさ、見にきたこともある」
「近くないでしょ」
「聖堂近いじゃん」
「あんたガル女でしょうが」
「聖堂は第二の母校なんだよ」ラカが鼻の穴を膨らませて言う。
「意味わからん」ヒソクは短く嘆息して先頭を行く。
階段で四階まで上がり、長い廊下を反対側まで歩く。図書室が近いのだろう、ヒソクの歩調が早まる。
角を曲がると正面に何の変哲もない白い二枚扉が見えた。上に『図書室』と掲示がある。
「あそこだな」自然と日和田の気も急く。
「受付に話がいっていると早いんですが」ヒソクがボソッとつぶやく。
「門番みたいなもんか」
「そこまでではありませんが、納得がいかなければ扉に触れさせてはもらえないでしょうね。困ったことに、アンブリスト候補生はクセが強いのが多いんですよ」
「緊急事態じゃん、ウチがねじ伏せるよ」ラカがあっけらかんと言う。
「そういう禍根を残すことはやめてくれる、マジで」
ヒソクは二枚引き戸の前で一息つくと、引き手に伸ばしかけた手を止めた。「万が一スムーズに行かなかった場合に備えて、エトから聞いたキーワードを伝えておきます。受付がややこしい相手だったら、わたしが抑えておきますから、一人でディケルを読んでください」
「いや、ウチは?」
「あんたは扉を開けたらわたしの援護でしょ」
「え、ウソやん」
「キーワードはダーシアン。プルディエールはダーシュという愛称で呼んでいました。彼女の息子です」
「え、息子?」日和田には少女のイメージしかなく、プルディエールが子を産んでいることに驚きを隠せない。
「ダーシアン、ダーシュね」
ラカがつぶやくと同時に勝手に扉が開いた。
いや、内側から誰かが扉をスライドさせたのだ。
「ようこそ図書館へー」短い黒髪の日に焼けた顔が笑みをたたえて言った。「ヒマしとってん、かもうてんか」
一瞬言葉に詰まったヒソクだったが、すぐに気を取り直し、「ごめんなさい、急ぎなんです。書庫を開けてください」
「そっちかいな、なんやおもんないわぁ」齧歯類の小動物を思わせる目をした少女は唇を尖らせる。「けど、書庫は自分で開けるもんやで」
「あ、チグサじゃーん。部活は?」ヒソクの背後から顔を出したラカが嬉しそうに言った。
「おうラカやんか。部活なあ、せやから平日はできへんから、隔週土曜は早仕舞いで当直なんよ。てか、なんでいんの?それにあんた、コスプレの趣味あったんや」
「これは違うんよ、怪しまれんように変装したっていうか」
「まあ、ええけど」チグサと呼ばれた少女は日和田を胡散臭そうに見上げ、「で、この人はなんなん。あんたの彼氏?」
「ち、違う。そんなわけないでしょ、おじさんだよ」ラカが慌てて否定する。
確かにおじさんだが、と認めつつ日和田は地味に傷つく。
「この人はわたしのパートナーです」ヒソクが緩んだ空気を締めるように真面目な口調で言う。「時間がないんです」
「あんた確かシノミヤさんやったっけ?」チグサは目を細め、「ちゃうな、あんた誰やねん」
「ビブリオテイカの杜松さんから連絡いってるはずでしょ」
「けど、あんたはビブリオテイカちゃうやん、ムラサキヒソクさん?」
「わかってるじゃないですかっ」
「チッ、変装なんかしてくっからややこしなんねん。気軽によそのガッコの服着んなや。あんたもやで、ラカ。嬉しがっとるんちゃうで」
「ええ?いいじゃん。この襟とか可愛いし、ちょっと羨ましかったんだよね」
「まあ、そういうことなら許す。てか、言ってくれりゃ、あたしの制服貸すのに」少女は小声で言ってから「ああ、サイズが合わんわな」
「そういうこと言うじゃん?だからヤなんだよ!」
「いい加減にしてください!マスターも止めてくださいよ!」
「ええと、チグサさん?一刻を争うというか、結構深刻な事態なんだよ。本人確認が取れたなら……」
「はあ、いいですよ。ただ、書庫の扉はあたしとは無関係だから、開けるのはそっちでよろしく。それと本を読むなら、先にいろいろ済ましといたがええんちゃいます?」
「あー、なんかウチ、トイレ行きたいかも」ラカが少し気まずそうに言う。
「トイレならあの角のとこやで」チグサが指差す。
「読書はそれほど時間かからないと思うけど……」ヒソクは暫時逡巡するも踵を返す。「まあ、急がば回れって言いますし。わたしもエトの様子を聞いておきたいからちょうどいいかも」
「あ、ウチも返信しとこ」
「返信?誰に?」ヒソクが怪訝な顔をして訊いた。
「え?先生だけど」
「ああ、そうなんだ。それはまあ、気にするよね……」
「ん?ああ、そうだろね」ラカも何かしっくりきていない様子だ。
日和田は二人のやりとりを耳にしながら男子トイレに入ったが、用を足しながら、無意識領域に何かが引っかかっているような気持ちの悪さを感じていた。
「ハイ、みなさん準備はいいですか?」
三人はカウンターを回り込んで、奥の大きな黒い扉の前に立った。
「なあ、あたしはもう帰ってもええかな」カウンターに腰掛けたチグサが、つまらなさそうに言った。
「すぐ終わると思いますから、待っていてもらえますか?」
「ええー、マジでぇ」
「仕事でしょお?」
「わーったよ。んじゃあ、はよぉしてよぉ」チグサが欠伸しながら言う。
「こっちは最初からそのつもりですよ」
ヒソクは苛立ちをなんとか抑えているようだ。深呼吸する。「よし、行きましょおか」
「あんた、アンブリストじゃないけど開けられるの?」ラカが訊く。
「あんたがいるんだから大丈夫でしょ、ラカ」
「まあ、エフェクタだからね」ラカは肩を揺する。「なんかていよく使われてる感じするなあ」
「早く」ヒソクがラカの背中をつつく。
「わかったわかった、くすぐったいからやめてくれる?」
ラカは指輪をした右手を、扉の把手が付いているべき辺りにある金属円に当てた。そしてゆっくりと扉を押し込む。
その様子をずっと固唾を飲んで見守っていた日和田は、内部を覗き込んで思わず嘆声を上げた。「おお、すごいじゃないか。これが全部リベルや背皮なんだな」
扉が開くと同時に灯りが点るようになっているのだろう。決して明るくはないのだが、逆にそれが過ぎ去りし時代の匂いとでもいうものを引き寄せているようだ。或いはこれは蔵書に共鳴した刺青の記憶か。
「数は中央と比ぶべくもありませんけどね。ただここには貴重なリベル・ディケルがありますけど」
「貴重なわりに、門番は学生なんだな」書庫に足を踏み入れながら、思わずつぶやいてしまった日和田はそっとカウンターを振り返った。
その鼻先で扉を閉めたヒソクは、奥にある金属製台車に目を向けると、顔をしかめた。
「ちゃんと棚に戻してない。いったい誰が」ヒソクは小さく息をつき、「エトしかいないか。まあ、重いしね。マスター」ヒソクは日和田を振り返り、「これがリベル・ディケルです。中央のテーブルに載せるので一緒に運んでもらえますか?」
「わかった。ちなみに何キロくらいあるんだ?」
「二十キロくらいだと思います」
「その大きさでか。イケるか不安になる重さだな。まず台車をテーブルに寄せよう」
「おじさん、賢いじゃん」ラカが言ってからしまったと言うふうに口を押さえる。
それだと余計に傷つくんだよ。内心穏やかでないながら日和田はポーカーフェイスを保っていたが、横に着けた台車からリベルをテーブルに移そうとするに至ってはさすがに無理な相談だった。
「おい、これおかしいだろ。ほんとうに二十キロなのか?」
「そのはずですよ。重さが変化するなんてあり得ませんし」
「ほんとうか?」
だったらオレの腕がおかしいのか?もしかして背中の刺青が拒否反応を起こしているのかもしれないと日和田は考えるが、本物のリベルを持ち上げる経験自体ほとんどないのだから、こんなものだったのかもしれない。
ただ、自分の刺青背皮がプルディエール・デルフトのものであるなら、今回初めて所縁のあるリベルということになる。なにかしら今までとは違う反応があってもおかしくない。
それになんとか持ち上げられないこともないようだ。日和田は指の筋や骨、筋肉に意識を張り巡らせ、過負荷にならないように気を遣いながら、リベルをテーブルの高さまで持ち上げた。両側からヒソクとラカも手を添えているが、負荷が減ったような気はしない。
米袋って確か三十キロくらいだったよな、などと考えているうちにリベルを掴んでいる指の爪がテーブルの天板に触れた。両側の二人が手を引っ込める。すると思っていた以上に二人が力になっていたことがわかる。なぜなら日和田の両手指が石抱きの拷問のような状態になったからだ。
「おいってててててててっ」日和田は呻きながらリベルの下敷きになった指を引き抜いた。「おまえら経験あるんだな⁈」
ラカは顔を背けつつ口を押さえている。
「さあさあ、ほのぼのコントをやってる時間なんかないんですよ。さっそく始めましょう」そういうヒソクは先ほどまでの緊張が解けて落ち着きを取り戻したようだ。
「わたしが頁を開きます。マスターはわたしを追いかけてください。ラカは……オマケなので適当にどうぞ」
「オマケェ?ハァ⁈」ラカは威嚇する小型犬のように鼻筋に皺を寄せたが、「って、まあ、これは報酬で、ウチの仕事の残り半分は読んだ後だけどさぁ。いいよ、いまは大人しくしといてやるから、早く読もうじゃん。いやー、受付がツレで助かったわー、なー、そう思うよなー」
過剰に恩を売ろうとするラカに、ヒソクは口をへの字にしたが、黙って両手をリベルの表紙に添えた。「じゃあ、わたしの手に手を重ねて。まずマスター」
日和田は頷いて手を重ねる。相変わらずひんやりと冷たい手だ。
「じゃ、ラカ。あんたも」
ラカはチラと日和田を見て、わずかに会釈すると手を重ねた。こちらはわずかに熱い。
「二人とも目を閉じて」ヒソクがささやく。
薄暗い室内では、目を閉じるとほとんど暗闇になる。本が開けば闇の先に光が見えてくるはず。
日和田は緊張で頭が痺れてきた。この闇の先にいったいどんな物語が待ち受けているのか……
ところがいつまで経っても何も起きない。
いや、実際は数秒しか経過していないのかもしれない。
日和田が目を閉じていることに耐えられなくなる寸前、ヒソクの嘆息が聞こえた。
重なって汗ばんだ手が解かれる。
「大変申し上げにくいのですが……」ヒソクはうつむいたままつぶやく。「やっぱりわたしじゃ無理みたいです。キーワードを聞いただけじゃダメなんだと思います」
「ハア⁈」ラカが声を上げる。「あんた、まさかビビってんじゃないでしょうね」
「違う!」ヒソクは日和田を見た。懇願するような、怯えているような顔で。「マスター、わたしは」
日和田はヒソクの頭を軽く押さえ、「わかってるよ、おまえはそういうヤツじゃない」
危険な目に遭わせないためだからといって、ヒソクは嘘をついたりしない。知らない人間の命を粗末にするはずもない。日和田もそれぐらいのことはわかっているつもりだった。
ヒソクは黙ってうつむく。
「なに、怒ったの?」
「……怒ってない」
「ホントにぃ?」ラカは疑わしげに言う。「だってあんた、耳真っ赤じゃん」
「ッ!」小さく呻くヒソクの肩が跳ねる。ゆっくりと顔を上げてラカを見る。「そういうとこだよ、あんた。そんなんでホントにアンブリスト?」
「だぁからぁ、アンブリストじゃなくてエフェクタだっつーの!」
「ハア、まあいいや」ヒソクはため息をついて日和田を見る。「だからって、調子に乗らないでくださいよ、マスター」
「え、どういうことだ?」
ヒソクは恨めしそうに日和田をにらむ。「わかってるくせにぃ……もう、いいですよ。とにかくエトのツレにすぐ連れて来るよう電話します」言いながらヒソクは席を立つ。「ここはいわば電磁暗室みたいなものなので、一旦外に出なくちゃダメなんですよ」
三人の落胆した様子にチグサがためらいがちに声をかける。「思てた感じにならんかったん?」
「ヒソクじゃ読めなかったんだよね」ラカはグチっぽく言うが、諦めた様子ではない。「助っ人が来てくれるんじゃないかな」
「もしもし、いまどこ?え、近くに来て……」
ヒソクの言葉が途切れると同時に日和田の背筋に悪寒が走った。
誰かいるのか?
「あ、先生。やっぱ来てくれたんだ」ラカが上げた手を振った。「先生の言った通りだったよ。キーワード聞くだけじゃダメだった」




