平凡な家庭
「そうか……」とにかくいまこの子を問い詰めても仕方がない。日和田は気を取り直して、背皮を移植された当時の自分について話を続けた。
「まあ、誰が驚いたって、オレよりも親だったな。特に母親。オレは大して気にしてなかったように思う。普段は見えないし。とはいえ、その夏の水泳の授業は完全に見学だったな」
「そうなんだ、大変だったんだね。それで泳げないままとか何かかわいそう」
「いや?その頃には普通に泳げるようになっていたよ。それにプールには人目があっても、島の海にはなかったからな、少なくとも嫌な感じの目はね。だからいまは得意だと言ってもいい」
「おじさん、島育ちなんだ」
「小学六年からだけど。火事の後、少ししてから引っ越したんだ。別にオレのためってわけじゃない。親父が公務員だったんでね、普通に転勤。けどまあ、オレのこともあって、あえて自分の田舎を選んだのかもね」
「お父さんの実家なんだ。それで泳げるわけね」
「ああ。夏休みとか長くいたし、島の子らとも友達だったし、馴染みやすかった」
「刺青、怖がられなかったの?気味悪がられたりとかさ」
「覚えている限りだけど、なかったかな。内心どう思っていたかまではわからないけど、まあ、子どもだしね。それに厨二病を発症する歳頃だったのも幸いしたかもしれないね」
「厨二病って、なにそれ。でもうらやましい話ね」独り言のように言ってからきまりが悪そうに「って、ごめん。別に刺青を軽く考えてるわけじゃなくて、親とか友だちとか」
「わかってるよ」日和田は真っ直ぐ前を見て歩く少女を横目で見下ろした。つまり、彼女はそういう境遇にいなかったということなのだろう。
「島にはいつまでいたの?」
「高校卒業まで。高校は島外だったけれど、島から通った。小さな連絡船でね、朝夕しか出てない」
「ふうん。それで、ご両親は健在なの?」
ラカが何でもないことのように訊いたので、日和田は油断していた。質問の意図を深読みすることもなく、事実を答えた。それに彼にとっては特段気にすることでもなかったからだ。
「おかげさまで元気にしてるよ。いまは実家の果樹園をどうするかって悩んでいるらしいけれど」
「そ」
そのままお互いに口を開かないまま歩く。女子高生となら会話が続かなくても当たり前だと、日和田は特に会話の糸口を探すこともない。初対面でもあるし、少々気疲れした感があるのも否めない。
と、不意に少女の足が止まる。不審に思った日和田が振り返ると、ラカは両手で顔を覆っていた「ちょっと、どうしたんだ?」
ラカはわずかに肩を震わせている。
「なんで君が泣くんだ?そもそも泣く要素なんかあったか?」
「泣いてない!」ラカは鼻を啜る。「ウチってば、ちょっと共感能力が高いわけ。だからこれはおじさんが泣いてるのが移ったってことなの!」
なるほど、無茶な論理だ。
「この力に関わるとろくなことにならないの知ってるでしょ」ラカはスンスンと鼻を鳴らす。「それが平凡な家族のままでいるから……どんなにラッキーなことかわかる?」
「そうか……まあ、ありがとう。それで……」君のご両親は、と続けそうになって、日和田は言葉を飲んだ。話の流れ的に質問しそうになったが、訊いても大丈夫だとは思えなくなった。さっきも碌なことにならないと言っていたわけだし……
「別に気にしなくていいよ」
「悪いね。自覚のない感情はコントロールしづらくてね」
「それじゃなくて」ラカはちょっとバツが悪そうに口ごもり、「ウチの親のこと。訊いてもいいよ」
何と言葉を返しにくい言い方だろうかと日和田は内心苦笑する。「じゃあ訊くけど、この先、刺青はどうするつもり?やっぱり入れるの?」
「プッ、親のことじゃないじゃん」ラカは小さく噴く。「別に悲しい話とかないから大丈夫なのに」
「え、でもいま泣いて……」
「だからそれはおじさんのせいだって言ったじゃん」
「ああ、そうだった。それでご両親のお住まいは?」
「北海道と沖縄。ウチの親は離婚したから」
「ああ、そうなんだ」日和田はそれ以上何を言っていいかわからず、口をつぐむ。
「おじさん、気の利いたこと言わないのね、大人なのに。どっちも遊びに行くには国内最強だねとか、夏は北海道、冬は沖縄とか」
それは大人が言うことなのかと思いつつ、日和田は頭を掻く。「はあ。どうも大人になりきれてないのかもしれないな」
「なにそれ、ウケる。どう見ても大人なのに、ヒゲとかも」
不精ですいません、と日和田は心のうちで謝る。
「別に謝んなくていいって」
「いや、別に本気で」謝っているわけじゃないと言いかけて、日和田は言葉をなくした。
「気味悪いでしょ」ラカは自嘲気味に言う。「さすがにもう口にしたりはないんだけどね。おじさんは知っとくべきだと思って」
ラカは小さな肩をすくめる。「でも心配しないで。そこまでハッキリわかるわけじゃないんだ。経験則と推測が主で、思考の伝播はきっかけみたいなもの、だと思う。それがホントに起こっているのか、実際わかんないし。だからテレパシーってもんじゃないよ。サトリでもない」
ラカは唇を歪める。「でも、避けられる理由としては十分だよね」
「なるほど」日和田はつぶやく。押し付け合いの末の離婚だとしたら、この子の痛みはどれほどのものだろう。それをどう受け止めたらいい?
「フン」日和田はわざとらしく鼻を鳴らす。「だが、気にすることはない、小動物よ。聖人君子のオレには関係のない話だーー読まれて困ることなど一切考えてはおらんのだからな」
ラカが日和田を見上げた。唇から息が漏れる。
「フッ、なにそれ。大人な返しをしたつもり?ウケるんだけど。てか、小動物ってどういうこと?ちょっと腹立つんですけど」
「特に意味はない」日和田は微苦笑すると手を上げて言った。「ほら、あのマンションだ」
日和田が指す方を見たラカが目を見張った。「すっごいタワマンじゃん!おじさん実はお金持ち?」
「いや、そんなことはない」日和田は手を振り、「ところで刺青の件だけど……実際どう考えている?答えたくないならいいけれど」
ラカは首を振り、「別に問題ないよ。でもなんか、いまは刺青入れてないってわかってる口振りじゃん」
「エフェクタに刺青はいらないだろ?」
「そうだね。確かに入れてない。でも技術を後世に残そうと思えば、フォルマの刺青を入れる必要はあるんだよね。まあ、それはいいんだけど」
「いいんだけど?」
「刺青入れること自体は、そんなに気にしてないってこと。でもウチってほら、ちょっと小柄だからさ、背中だけじゃ足りないっていうか、お腹とか……」ラカはほんの少し言いにくそうに、「お、お尻とかまで刺青を広げないと、らしいんだよね」
「ああ、なるほど」日和田は頷く。「いくら綺麗な刺青でも、あんまり広い範囲になるとね……躊躇するよね、女の子は」
「う、うん。まあね」
T字路に突き当たったところで一旦刺青の話は終わり、ラカは十数メートル先のタワーマンションを見上げた。「近くで見ると首が痛くなる高さだね」
狭い車道を渡ってマンションの前の歩道に上がる。
「ウチってばタワマンに入んの初めてかも。ね、何階に住んでんの?」
「五階だ」
「あー、そうなんだ。展望台気分を味わえるかと期待しちゃった」
「人がゴミのようだってか?」
「そんなに傲慢じゃないよ」
「んー、これは結構メジャーだと思うんだが……」日和田は苦笑いを浮かべる。この世代では、やはりヒソクが稀有な存在ってことか。
「屋上とか出られないの?」ラカが期待のこもった眼差しを向ける。
「出られるかもな、知らんけど」
「出たいって思わなきゃ調べないか」
ラカは小走りにマンションのエントランスに向かうが、日和田はそのまま通り過ぎた。
「ちょっとおじさん、どこ行くのよ。買い物ならあとにしてよね」
「こっちだ」
「え?」
日和田はタワーマンションの隣りの古ぼけたビルの入口を顎で示す。「ここの五階が自宅」
「はあーーーー⁈」 ラカが叫ぶ。「じゃあなんでこのタワマンを指差したのよ」
「目印だからだよ」
タワーマンションの出入口の前で言葉をなくすラカに日和田は声をかける。「そこで待っててもいいよ。すぐ戻る」




