あの火災
「おじ……日和田さん、車じゃないの?」病院のロビーを抜けながらラカが訊いた。
「あー、タイヤは付いているけど、公共交通機関だね」日和田は〈おじ〉という接頭語がつくくらいなら、もうおじさんと呼んでくれて構わないと思いながら、「車は持っていないんだ」
「ああ、そう。先生も持ってないよ」
「先生って、アンブリスト、いやエフェクタの?」
「そうだけど、人生の師っていうか」ラカは下唇を突き出して黙ったが、すぐに言葉を続けた。「天賦の才ってのはね、発現した時点じゃ自我の手に負えないわけじゃん。大概の天才はそれで苦労するわけ」
ラカは軽く両手を上げ、「例えば一般的にはすごく難しいとされる問題を解けるとするじゃん?でもそれってわかるってだけで、受け入れられるってこととは違うんだよね」
「それはわかる気がする。精神の成熟度と知能はイコールじゃないもんな。それよりきみは理論物理学的なことが当たり前に理解できるのか」
「例えばって言ったじゃん。ウチの場合はそれが意味の領域の理解ってこと。専門家ってさ、突き詰めれば突き詰めるほど、自分にとって自明のことを省略する感じじゃん。それって、言葉で説明するのが面倒ってのもあるけど、言葉の能力が十分じゃないってこともあるんだよね。たぶんだけど。ウチも一緒でさ、意味の領域なんて異質じゃん?共通項に言葉が当てられるわけで、みんなが知らない概念は、たとえ言葉を当てたって理解できない。生まれつき全盲の人に色を説明するようなもの。できなくはないかもだけど、色そのものじゃない」
ラカは頷く日和田をチラと横目で見上げる。「つまりウチは意味の領域で渦巻くもの、感情とか理屈とか道理みたいなものを処理できないし、共有もできなくてふさぎこんでたわけ。そんなときに先生に出会ったんだよね。てか、会いに来てくれた」
そういうラカの表情からはその人物への信頼と敬愛が見て取れる。
「人は意味の領域の外に出ることができる。先生はウチにそう教えてくれた」
「しかし君は領域の外にいるから、意味の領域をしっかり認識できたんじゃないのか?」
「そうなんだけど、ウチは領域を覗き込みすぎてたのよね」
「ああ……深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ、か」
「ニーチェでしょ。それ先生も言ってた。ウチとしては覗いてる自覚はなかったわけだけど。物心ついたときからそういうものだったから」
「なるほど。才能が大きければ、苦労も多いってことか」日和田は独り言のようにつぶやいた。
二人してICカードで改札を抜け、ホームに立った。ちょうど列車が来るようだ。音楽が鳴り始めた。
電車内ではドアの際に立ち、日和田の自宅の最寄駅まで会話をすることはなかった。差し込む夕陽が赤いラカの髪をさらに紅く染める。
改札を出るとラカが言った。「さ、次はお、和田さんが話す番だよ」
日和田は苦笑し、「オワダさんて誰だよ。もう、おじさんでいいよ。というかなに、オレも自分のことを話すのか」
「そりゃそうじゃん。親睦を深めるってのは双方向でなきゃ」ラカは肩を揺する。「例えば好きな食べ物は?お気に入りのマンガは?座右の銘は?嫌いな政治家は?それからその背皮、素性がわかるくらいは馴染んでいるのか、とか」
背皮のこと、誰から聞いた?いや、エフェクタとやらにはわかるもんなのか?日和田は黙り込む。
「何で知ってるかって?」ラカが真顔で日和田を見た。「先生から聞いたんだよ。先生はその背皮を移植した人と知り合いで……」
「ちょっと待ってくれ、知ってるのか?この背皮がオレに移植された経緯を。その先生って、さっき言ってたニーチェの……」
「あ、それは別の先生。背皮について知ってるのは、さっき病院で会った杜松先生」
「ああ、あの眼鏡をかけた女医さんか。てことはこの背皮を移植したのは彼女の知り合いの医者?」
事故はもう二十年以上も前の話だ。四十歳台に見えた杜松医師は当時医大生というところか。ならば移植したのはその大学の先生……
そこまで考えて日和田はその考えを否定する。これは背皮の話だ。移植したのはアンブリストのはず。だとしたら、杜松医師とその知り合いはもっと以前、ビブリオテイカ関連の学校のような、アンブリスト養成所での……
「あのさあ、なに考えてるのか知らないけどさ、ってかだいたいわかるけど、そんなの後で直接訊いたらいいじゃん。いまはそんなこといいから話、おじさんの話を聞かせてよ」
ラカの言葉に彼は現実に引き戻された。
オレの話か。確かに。日和田は小さく息をつくと口を開いた。
「オレの父方の曾祖父は前の戦争で大陸に行ったらしいんだが……」
「ちょい待ち!」ラカが声を上げた。「いったい何の話?誰も家系のことなんて聞いてないんだけど、それってどうしても必要なくだりなわけ⁈」
「いや、何事にも精確さが必要かと」
「いらない。いらないからね、そういうのは。話はおじさん個人限定でお願い」
「わかった。とりあえず背皮について」
自宅まではあと三分ほど。簡潔に話すべきだろう。「背皮を移植されたのはオレが小学五年生のときだな。ビブリオテイカとか、なにかの組織に養成されていたわけじゃない。単純に助けてくれたのだと思う。ああ、そういうのは知っているのか」
「ううん、知らないよ。その火事のことは知ってるけどね」
「そうか。確かに結構大きなビルだったからな。いまでもたまに映像が流れたりするものな」
休日の真っ昼間、繁華街にある大きな商業施設で爆発騒ぎなど滅多に起こるものではない。多くの死者が出ても不思議ではない事故だ。しかしながらこの爆発、火災による死者は一名。なぜなら火災発生現場となったフロアにはそのとき三人しか客がいなかったからだ。そしてなぜか従業員も爆発地点から離れた場所にいて、すぐに避難できたのだと聞いた。つまり人気を避けた場所で爆発が起きたということになる。
「オレは爆発と同時に気を失って、気がついたときは病院だった。知らない天井だってヤツさ」
「ん?なにそれ」ラカが首を捻る。
「いや、大した意味はない。気にしないでくれ」ヒソクなら誰がシンジくんやねんっと突っ込んでくれるのだろうが。そもそもラカはアレが流行った世代ではない。ヒソクがおかしいのだ。
「助かったのは奇跡だと言われたよ。何せ同じフロアで倒れていた人は全身に火傷を負って死んだわけだから。もう一人いた女性がどうなったのかはわからない。女の人は二人いたんだ。当時もそう言ったんだが、誰も見ていないし、ショックで記憶が混乱しているんだろうって言われたけどね」
「ふうん。まあ、仕方ないよね、子どもだったんだし、他に目撃者がいなかったんだから。でもさ、確かに二人、本当はおじさん含め四人、あの場にはいたんだよね」
「えらく確信があるふうに言うね。君はまだ生まれてもないだろう」
「ま、そうなんだけど、ウチがあの火事を知ってるのはさ、あれがアンブリスト絡みの事件だったからなんだよね。つまり当事者から直接聞くのは無理でも、当局に調書は残ってるわけじゃん。だから知ってる。ただ、やたらと非公開部分が多いんだよね。政府の文書みたくさ。そんで詳しいことは知らないってわけ。それは杜松先生も一緒。知り合いなのにね?先生は箝口令がしかれてるんちゃうかーって言ってた」




