ICS
「そうね」ラカは腕を組んで口を開いた。「一口に呪いって言っても幾つか種類があるのは知ってるんだよね」
ラカの視線を受けて日和田は答える。「知識としては」
ラカの目と沈黙に促され、日和田は続ける。「アンブリストが自らかけた呪い。背皮がアンブリストから剥がされる前に他者から書き込まれるもの」
答えて日和田はラカを見るが、彼女は満足していないようだ。しかし彼はそれ以外思い当たらない。
「それだけ?肝心なものを忘れてない?」
「いや、だけど剥がした背布とかリベルには書き込めないし……」
「チッチッ、それ勘違い」ラカは指を振る。「書き込めないのはリベルだけ。背布は書き込める。例えばメモリア背布には新しい情報を追加できる。ビブリオテイカの検索機能を見ればわかるでしょ。え?知らないの。あ、そう。一回見学した方がいいんじゃない?」
「それから、描き込みは何も背皮を対象にしたものとは限らないわ。背皮と司書の間で働くものもあるでしょ。この背布に関して言えば、アンブリスト自身が封じた背皮に後から描き込みが為されている。まあ、それほど稀な話でもないわね。封じられたものを読もうとして刺青を追加することはあるし。でもこれは司書を害する目的で描かれてるからまったく話は別」
「背皮の持ち主が意図したんじゃないんだね」日和田が言った。
「そりゃそうでしょ。腐っても鯛ってやつよ」
つまり他を害するのはアンブリストの本分ではないと言いたいのだろう。
「それで結論としては、これはアンブリストの呪いがかかった背布で……」
それは日和田もわかっている。
「加えて司書を害するまじないがかけられてるって代物ね。というか、アンブリストの呪いに直結するように仕掛けられてる。この背布の持ち主だったアンブリストの無念とか怒りとか苦しみっていう、呪いをかけなきゃならない状況になったときに、彼か彼女のなかに渦巻いていたものにね」
「これをやった装飾師はどんなやつかね」医師が言った。
「価値観が特殊なんじゃない?善悪ってある程度は主観だからさ。ただ一つ言えるのは、相当な能力だってこと」そう言って背皮を見つめるラカの口元が引き締まるが、また開く。「ああ、それからもう一つ。この背布自体は百年以上前のアンブリストのものだけど、細工されたのはつい最近ね。ここ十年以内だわ」
「なんとかなりそう?」医師が訊いた。
「わかんない」
「わかんないかあ」
「ディケルから何を引き出せるかによる。多少アレンジが加わってるけど、基本はディケルの術式で間違いないから」
「まあ、朗報やと受け取っておこうかいな」医師は片方の口角を上げる。
「で、いつにするの?ウチはいまから図書館学校行ってもいいけど」
「そうやなあ。エトちゃんの調子次第やろなあ」
「ああ、そうか。じゃあ、ウチちょっとエトの様子見てくるよ。新館の方だっけ?」
「そうや」早速駆け出したラカを追って部屋を出た医師は、口に手を添えて呼びかける。「おおい、ラカちゃん、部屋番わかるんか?」
「大丈夫、近づいたらわかるからっ」振り返ったラカは、大きな声で返事をしながら手を振った。
医師につられて廊下に出た日和田はラカの背を見送ると、医師に声をかけた。「ネズ先生、お願いがあるんですが」
「ん?なんやの」
「ICSについてもう少し詳しい説明をいただけませんか」
「ええけど……なんや身近に患者がおるん?」
「いえ、そういうわけではないんですが……仕事柄興味があるというか」
「ふうん」杜松医師は値踏みするように日和田を眺め、「まあええけど。どないなことが知りたいん」
「そのICSですか、それはリベルやアンブリストと深い関係がありますよね」
「おそらくね。彼らの言う意思の力っちゅうものに、意識が過剰反応してまうのが症状の原因やと思うんよね」
「意思と意思じゃなくて、意思と意識なんですね」
「まあ、理論的なことは私より赤城ちゃんに聞くんがええんちゃうかな」
日和田は興味深そうに患者の刺青を見つめている、白衣姿の赤毛の女に目をやった。
赤城は刺青から目を離さないまま口を開いた。
「意思と意識の違いを?」
一瞬の間を置いて自分が答えるところだと気づくと、日和田は言った。「まあ、ある程度はわかっているつもりですが」
赤城は日和田の返事などどうでもいいようで、彼が言い終わらないうちに話し始める。「意識というのは、主に脳の活動を観察したもの。意思も同様に観察されるものだが、意識と違って一方的なものじゃない。意思の発動はループしている。脳の物質的活動と活動の間、あるいはそれと重なって存在するものがある」
そこで赤城は口を閉じた。日和田が黙って続きを待っていると、彼女は不機嫌そうな顔で振り向いた。
ここは答えるところだったか。日和田は内心苦笑しつつ言う。「意味の領域ですか」
「わかっているのならさっさと答えたまえ。そうだ、アンブリストたちが意味と呼んでいるものだよ。意識にそれがないとは言わないが、意識、自我は、ほぼ脳のプログラムの発露に過ぎない。意識は自己の存在を実感しているが、自己の始まりではないんだ。それに対して意思は自己というループのなかで始まりに位置することもある。鶏が先か卵が先かという議論と同じように、脳の活動が先か意識が先かといったとき、これは議論の余地なく脳が先だ。これが意思と脳の場合、これも議論の余地はない。これはどちらでもある。
ちなみに鶏と卵なら、私は卵が先だと断言していたよ。アンブリストというものを知る前はね。まあ、これは余談だが。とにかく意思と意識が別物だということは周知の事実だが、その違いは?」
赤城は一呼吸おいて続けるが、もはや日和田に話しているというより独り言のようで、その視線は内側に向いているかに見える。
「意思と意識はその発するエネルギーによって明確に区別される。エネルギー量だけでいえば、感情もなか
なかの強さではあるから、簡単に言ってしまえるものでもないがね」
「エネルギーですか。それは活動に伴う熱のことではないんですよね」
「そうだね。そういうことじゃない。例えば、身体は赤外線を放出している。身体の熱がそうしている。赤外線ってのはひとつの波長じゃない。赤よりも波長が長い電磁波だ。熱はそれを出している。つまりエネルギーは何かしらのものを出すんだよ。では意思はどうだろうね。意思はエネルギーを持っていないだろうか。意味というエネルギーを」
「持っているんですか」日和田は驚きを隠せない。
「私は持っていると思っているよ。しかしまだ計測されたわけじゃない。残念ながらね。測れないのは、何をどのように測ったらいいかわかっていないからだ。わからないものそれ自体は観測できない。その観測装置がないからね。それに仮に電磁波のようなものだったとしても、波長が違う次元に由来するものだったら、この三次元の、四次元でもいいけれど、この世界の手には負えないだろうさ」
「物理的に測定するのは不可能だと?」
「そういう可能性もあるってことだよ」




