病室の彼女
「どうして一般病棟なんだ!」
怒鳴り声に、二人は病室のスライドドアの前で足を止めた。
「お父さんだわ」環佳がつぶやく。
「個室なんだから十分じゃないですかぁ」緊張感のない声が答える。
「あちらだと困ったことになるのですよ。特殊病棟にはICSの患者が多くいるのでね」別の女の声が説明する。
「ICS?」父親が不機嫌そうに言う。
「過敏性意識症候群。イリタブル・コンシャスネス・シンドローム」二人目の方が言う。この声には人を落ち着かせる響きがある。
「で、ICS。オケ?」最初に聞こえた声。クレーム対応には明らかに不向きだ。
「過敏性腸症候群ってあるでしょう?それの精神版ですよ。あなたの娘さんはいま、強い精神波を放出し続けている状態なんです」
「いわゆる電波系女子だねぇ。それも悪影響を及ぼす類いの」
「サクラ、あんたは黙ってな。とにかくそういうことなので、その周りに壊れやすい受信装置を置いてはおけないでしょう」
「それは何か?テレパシーとでも言いたいのか?バカな」武井姉妹の父親が一笑に付す。
「意思の力を信じてないのに、子どもにこんなことするわけ?」
これはさっき黙っていろと言われたさくらだ。とぼけた口調に非難めいた響きはない。純粋に不思議がっている。
エトと環佳が入るタイミングを失したまま病室の会話を聞いていると、不意に勢いよく扉がスライドした。
「ねえ、入らないの?てか、きみたち誰?」
この声、さくらに違いない。思ったよりずいぶん小柄だ。長すぎる黒髪を襟足辺りで無造作に束ねている。赤毛のラカとどっちが小さいだろう。エトはふとそんなことを考える。
「お取り込み中なら出直します」環佳がささやくように言う。真面目な環佳は父親に敬意を払っているか、あるいは父親が恐いのだろう。
さくらは思いがけない早さで環佳の腕を掴んだ。「いやいやいや、きみ身内でしょ、そっくりじゃん。狭いところだけど、どぞどぞ」
さくらは力ずくで環佳を引き込むと、エトに向かってクンクンと鼻を鳴らす。「キミは……お友だちのようだね」
エトは自分の腋を気にしながら、「そういうあなたは警察ですね」
「お、よくわかったね」
「勘ですよ」犬みたいだからとは言わずにおいた。
「まいったなあ。やっぱり貫禄ってヤツ?」
さくらは頭を掻いたかと思うと急に顔を近づけて言う。「ところでさ、最近どっかで会わなかった?」
「いえ、会ってないと思いますよ」不意のことにたじろぎながらもエトは答えた。最近の記憶はちゃんとしてるはずだ。
「あ、そう。別にどっちでもいいんだけどね」
二人に続いて病室に入ろうとしたエトは、さくらが手を離したドアを支えようとしてよろめく。思ったよりも閉まる方向への力が強い。小柄な私服警官は障子よりも軽そうに開けた気がしたのに。
しかしそんな驚きは、ベッドに横たわる亜生が目に入った瞬間に上書きされる。「亜生……」
横たわる亜生の顔は青ざめ、首筋には血管が赤く浮いている。おそらく亜生のではなく背皮のものだ。宿主を蝕むほどに活性化している。最近特別授業で映像を見せられたが、直接目にした生々しさにエトは身震いした。いったい背中側はどれ程ひどい状態になっているのか。
「キミ、大丈夫かい」
理知的な声がした。もう一つの声の主に違いない。
部屋の明かりを赤茶に反射する癖毛。その下に隠れ気味の両目は、少しだけ間隔が広めで、それを縁取る隈が白衣と相まって独特のマッドな雰囲気を醸し出している。
「キミ、ICSの気があるんじゃないか」
「え?いや、その……ちょっとショックで。でももう大丈夫です」
エトは努めて自然に見えるように言った。しかし亜生を目の当たりにしたときと別種の動揺で動悸が速まるのを感じていた。この癖毛の(おそらく)刑事(もしかしたら医師)の、実験動物を見るかのような目付きのせいだ。ICSの話も、立ち聞きした内容からはまったくの無関係とも思えないが。
「そうか。ならいいんだが……」
癖毛のマッドサイエンティストはエトの内心を見透かすような流し目を送った後、双子の父親に向き直った。「とにかくお父さん、早急に除去手術を受けるべきです。この方面に詳しい医師を紹介しますので……」
「剥がすなどとんでもない。娘の体調さえ回復させてくれればいいんだ」
「あのね、親父さん」さくらが言う。「下手したら、下手しないでも、これって虐待だからね。逮捕だからね」
「な、何をそんな、私は」
「サクラ、おまえは黙ってろって言ったろ?」
癖毛の女は父親を見据えたままピシャリと言い、「剥がさずに回復は難しいと思いますが……そのことも含めて、いまから医師との話し合いに同席してもらえますか?任意でお願いしているうちに」
いつでも逮捕状をとれると暗にほのめかしているような台詞に臆したのか、父親は不承不承頷くとさくらに続いて病室を出た。最後まで娘に声をかけることも、目を合わせることもなかった。
癖毛の警察官は片口の端をわずかに上げてそれに続く。「キミたちも長居は禁物だよ」
寝ている亜生とそれを心配そうに見つめる環佳と共に病室に残ったエトは交互に二人の顔を見る。
「せっかくお見舞いに来てくれたのに、一言のお礼もなくてごめんなさい」
それが父親のことだと、エトは一拍おいて理解した。「あたしはいいんだけどさ」
環佳は寂しげに笑うと、「背布のことになると、いつもあんな感じだから。父はね、母がリベルにされたのが許せないし、認めていないの。いまからでも取り戻せるって信じてる」
環佳は一拍置いて続ける。「わたしたちを使って」
エトにはその使い方がわからなかったが、背筋に悪寒が走った。
「亜生はもう諦めてる、好きにしたらって。わたしは父の気持ちもわかる。娘っていう役に縛られているのかもしれないけれど」
武井親子の闇に飲み込まれそうになる自分を引き上げるように、あえて軽い調子に切り替えたエトは、首をかしげて唸る。「えーっと、それってここに寝てるアオ?あんたがアオのときはどう思ってんの?寝てるアオがワカのときは?キャラの方に合わせてんの?」
「それは……」
言い淀む環佳の横から、プフッと息が漏れる音がする。二人が見ると、亜生が薄目を開けていた。
「それってダジャレ……なわけ?エトがえーっとって……さぁ」かすれた声で亜生が言う。
「違うわ!言ってからしまったと思ったわ!」
思わず声を上げたエトは、すぐに枕元に顔を寄せる。「てかアオ!あんた大丈夫なの!?」
「大丈夫なわけないじゃん……目を開けたらエトがいるから、天国に来ちゃったかと思ったよ」
「勝手に殺すな!」
「ふふ。まあでも、いますぐ死んだりはしないよ」
口元を押さえている環佳はいまにも泣き出しそうだ。
「お姉ちゃん、連れてきちゃダメって、言ったじゃ……」
「ごめんね、ごめんなさい。でも、エトならなんとかできるかもって」
「危なすぎるよ……お医者さんに……」
「アオ、そんなに喋っちゃダメだよ」エトは亜生の髪に触れながら言った。「大丈夫。無茶はしない」
「う、ん」亜生の目がすうっと閉じる。苦しそうな息遣いが不意に途切れる。
「アオッ」環佳が短く悲鳴を上げた。
「大丈夫」亜生の口元に耳を寄せたエトが言う。「息してる」




