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ビブリオテイカ/零葉の錬金術師  作者: 浦早那岐
ディケル・ソロウ
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肉体、心、そして魂

 明け方家に戻ると、ちょっとした騒ぎになっていた。あの暗殺者によってほぼ全員が大なり小なり負傷したうえに収穫なしに終わった神獣狩りのこともあるが、主に消息不明の息子の安否について両親の間で一悶着あったらしい。

 母の弟であるレッティアーノ叔父も当初は行方不明かと思われたが、一人で神獣を追いかけていたらしく、皆が気がつく頃には諦めて戻ってきたらしい。その叔父が仲裁に入り刃傷沙汰にはならなかったが、もともと息子を参加させることに反対だった母の激昂ぶりは凄まじかったそうだ。

 そんなことなど知る由もなく、また思い至ることもなく、のほほんと玄関に立った息子を見て、母は安堵と怒りがない交ぜになった複雑な表情で一声息子の名を叫ぶと、張りつめた糸が切れたように倒れてしまい寝室に運ばれた。

 父は困惑を隠せないまま義務的な叱責をくれた。いままで何をしていたのかという問いには山のなかを徨っていたと答えたが、以前は我が庭のように遊び回っていただけに、父は明らかに訝っていた。しかし他に理由も見当たらないわけで、それ以上追求されることはなかった。

 恐怖で声が出せなかったのと、神獣狩りの面々が全員、暗殺者によって心神喪失状態になっていたのが、気の毒ではあるものの幸いしたわけだ。

 父の小言の最中から、オレは教会のことが気になって仕方なかった。プルディエールと名乗った錬金術師の傷のこともある。彼女は左手の縫合を渋ったが、最終的には了承した。

 しかし、また切り開く痛みに耐えねばならんのか、痛みには慣れているが痛くないわけではない、などと不平を漏らしてはいただけに気が変わるかもしれない。

 できるだけ早く教会に戻って確認したかった。とはいえ、さすがに睡魔には勝てず、ほんの仮眠のつもりでベッドに倒れ込んだが最後、ぐっすり眠ってしまった。

 目覚めるとすでに陽は傾いていた。漂う脂とハーブの匂いに刺激された空っぽの胃の捩れるような痛みに耐えて階段を下りると、台所にいる背中に向かって声をかけた。「おはよう、母さん」

「もう夕方よ。お腹空いたでしょ、先に食べる?お父さんは少し遅いかもしれないから」

「実は山に行く前に、帰ったら話を聞かせるってラグと約束してたんだ。ちょっと遅いかもしれないけど、行ってもいいかな」

 振り返った母は悲しげに眉を寄せた。「そう。あの子、元気にしてるの」

「元気だよ。仕事もしてるしね。用心棒だっているし」

 母は小さく頷くと「じゃあ、夕飯包んであげるから、一緒に食べなさい」

「いいの?ありがとう、喜ぶと思うよ」

 母から料理の大きな包みを受け取ると、父と顔を合わせる前にそそくさと家を出た。


 左右に広がる畑を眺めながら農道を歩き、ブドウとオリーブが交互に葉を茂らせる果樹園を越えると、教会の尖塔が見えてくる。

 大きな糸杉を折れると小走りに教会の裏に向かったが、そのときにはもう言い争う声が聞こえていた。ラグとあの錬金術師の女、プルディエールに違いない。

 物置の入り口では、女剣士が持ち出した椅子に座って瞑想していた。付き合い切れなかったのだろう。

「魂などという在りもしないものを信じているから現状に甘んじてしまうのだろう」

「魂がないのだとしたら、このあたしは何だというの?魂という呼び名がお気に召さないのなら、別の名前でもいいわよ。でも、あたしはここにいるという確信が揺らぐわけじゃない。あんたはどうか知らないけどね。あたしは確かにここにいるの。そしてこのあたしこそが魂なのよ」

「それを魂と呼びたければ呼ぶがいい。しかしそれは肉体を離れて存在するものではない。それは別の肉体に宿り、別の人間に生まれ変わるものではないのだ。他の肉体に移りたければ、いまのこの肉体において自分というものを構成している最大の要素を、新しい肉体に移植しなければならないだろう」

「へえ、それは心臓?それとも脳みそかしら」ラグは長嘆息し、「だ、か、ら、それは肉体であって魂でもなければ心でもないっての」

「ふん。肉体、魂、心。それらは同じものの別の側面でしかないと何度言えばわかるのか」

「何度聞いたってわかるわけないじゃない。理解させたいんなら繰り返すんじゃなくて、わかるように説明しなさいよ」

「そなたが途中で口を挟むからであろうが」

「わかりづらいのよ、あんたの言ってることは。だいたい専門用語とか出してこないでよね」

「わかったわかった。赤子でもわかるよう、懇切丁寧に説明してやろう」

 把手に手をかけると、女剣士が片目を開けてこっちを見たが、特に止める様子もないのでそっと扉を引いた。

 瞬時に振り返った二人に睨まれたが、布包みを掲げてみせるとラグは目を輝かせて頷いた。オレはそれを戸口横の棚の上に置いた。

 遺体はすでに埋葬されて、匂いもほとんど気にならない程度になっていた。

 人の死も死体も珍しくないご時世とはいえ、今のいままで切り開かれた遺体のことを忘れていて、ここで飯を食おうとしていたんだから、我ながら慣れすぎなのではないかと自省する。

「生徒が増えたようだがまあいい」プルディエールは咳払いする。

 その仕草に、オレはまた遺体のことを傍に置く。

 とにかく今は、華奢で小柄な子どもが自分より少し年上の少女に真面目くさって抗議する様を見て吹き出さないように気をつけねば。

「おい小僧、何を考えているのかお見通しだぞ」

 プルディエールに睨みつけられ、オレは意図せず弛んでいた口もとを引き締める。

 プルディエールはよかろうとでもいうように、細く色の薄い眉を上下させた。「さて、この世のすべてのものは分割可能である。これは真理か」

「真理だと思う」ラグが答える。「どんなに固くても砕けないわけじゃない」

「では、モノはどこまで細かく分けられるものだろうか。際限なく、ということはあるまい。それは無から有が生まれたとするより説明がつかないものになるだろう。だとすれば、始めに何かがあるわけだ。モノを構成する基礎が。我々はそれを一なるものと呼んでいる。この世の多様性は構成要素ではなく構成様式の違いが原因なのだ」

「あら、東方の哲学者たちと同じじゃないの。彼らがあんたたちの先生ってわけ」

「ふん。我々がそちらの流れ、も、汲んでいるというだけのこと。教会のもとでは学問が長い間停滞しておるのでな」

 ラグは口を挟まないではいられないらしいが、止めないところを見ると結局のところ錬金術師にとっても丁度良い合いの手ということか。

「物好きな神父に教えられたのか?異端と謗られそうなものだが。しかしそんなことはいまはどうでもよい。要は人間が一なるものにまで分割されたとき、魂はどうなるのかということだ。魂も分割可能なのか?」

「魂はまったく別のところにあるのよ」

「我々はそれを一なるものと認識しているのだが。一なるものはその数、量を問題にしない。しかしまあ、それは一旦置くとしよう。次にわたしが認識しているわたしを意識と呼ぶとしよう。この意識は不滅不変のものではない。意識は変わりゆくものだ。肉体の変化や経験によって。意識は一つのようで一つではない。それは分割できるのだ。多くの小片が集まってできた一纏まりであって、活動する肉一つ一つが集まって一人の人間になっていることに対応している。むしろ意識は変化することによって存在しているといえるのだ。時間の中でこそ意識は考えることができるのであり、時間は変化だ」

「意識は魂ではないわ。魂は不滅だもの。モノの中に見つかるものでもない」

「ならばそなたは魂を見たことも、それに触れたこともないということになる。それでもその存在が確かなものだと言えるのか」

 実証的という意味ではラグの旗色が悪いようにも思えるが、そもそもキリスト教において魂の存在は絶対だ。彼女は確信に満ちた顔で言い切る。「言えるわよ。だって確かに不変不滅なものがあたしの中にあるって感じるもの。神さまみたいにね」

「その神と魂は同じもの。エメラルドにおける上なるものと下なるもの、プラトンを信奉する者たちの一者、東方でいうところのブラフマンとアートマン、全であり個。それは理だ。この世界がこのようであるという決まりそのもの。まあ、理については人から聞いて理解できるものでもない。いや、理解していることに気づけるものでもないと言った方が良いか」

「だったら、呼び名が違うだけってことじゃない?」

「そうだ、とは言えぬな。魂は命の数だけあるのが道理だが、理は一つきりだ」

「そう。じゃあ、あなたの魂もあたしのも、神さまに創られた、ひとつながりの何かってことね」

「そうだな。わたしは肉体の働きによって生じるものを感じている、ただただ受け身なものが自意識であり、一なるものだと考えている」

「ふうん、一なるものね……それは魂とは別なのね」

「個別に存在するのが魂だというのなら、同じものとは言えぬ」

「で、一なるものと理は同じもの」

「そうだ。そしてわれわれは理をある程度理解できたと考えている」

「世の中の仕組み、真理を究めるのが錬金術師の本懐だっていうものね。でも、本当にこの世の仕組みを解き明かしたわけ」

「理解したと言うのはおこがましいかもしれんがな。そら、昨晩見せてやったであろう、わたしの背中を。これも理に沿って文様が決められているのだ」プルディエールは己が肩を叩く。

「理って、文字とか模様にできるもんなの?」

「良い問いだ。正確には理そのものではなく、心、つまり意識の有り様を封じるための形を、理から導き出したものだ」

「意識のほとんどは脳の活動から生まれるもんでしょ。ってことは、背中に脳の写本を作るってわけ」

「半分正解だ」

「半分?じゃあ、残り半分は?いったい何のための刺青なわけ」オレはつい横から口を挟んでしまい、ラグに睨まれた。

「あと半分は自分のためじゃないよね」

 気を取り直し、ラグは再びプルディエールに向き直って言う。「だって背中だもん、見えないし。プルは右手の模様を見ながら傷を治したのよね」

「まあ、視覚的効果は副次的なものだが、脇道に逸れるな。続けてくれ」

「後で聞かせてよ」

 ラグランティーヌは咳払いをし、「つまり他人が背中の模様を見て、というか使って何かするってことよね。もっと大がかりな治療とか?」

「良い視点だ。ほとんど正解だが、治療ではない」

 プルディエールは右手で自分の左肩を叩き、「これは他人がわたしと同調するために必要なものなのだ」

「同調?何を?」オレはまたしても反射的に訊いてしまった。

「意識でしょ。それ以外に思いつかないんだけど」

 ラグが言うとプルディエールは珍しく口角を上げて笑った。「その通りだよ、ラグランティーヌ嬢」

 期待以上だ、とその目が語っている気がする。すると不意にプルディエールと目が合った。「おまえは修行が必要だな、ディケル。持って生まれた才はあれど、脳があまりに未発達だ」

 返す言葉もない。


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