教会の研究室
教会に沿って並んでいる黒い糸杉が見えた。それに隠れているが、仄かに光がちらついている。神父が自ら建てつけたガラス窓から漏れる灯火だ。遺体でも担ぎ込まれたのか、まだ起きているらしい。
「ご所望の腕もあるかもしれないね」
女は伸び上がって前を見た。「廃墟のような尖塔だな。なるほど、件の人物はあの掘建て小屋か?」
女は背中から飛び降り、軽快な足取りで物置へと駆けていく。が、派手に転んだ。心配した通り、小さくなった身体にまだ馴染んでいないのだ。
それでも即座に起き上がり、女は無造作に扉を叩き始めた。扉が開きかけてようやく、オレは警告するのを忘れたことに気づいた。言うより先に女の襟首を捕まえて後ろに引き戻す。
「何をするっこの……」
勢い余って地べたに転げた女だが、半開きの扉からヌッと突き出た剣先を見て罵倒の言葉を飲み込んだ。「なななな、なんだ」
「オレだ、ディケルだ。ラグ、いるんだろ。お姉さんにこの物騒なもんを引っ込めるように言ってくれ」
「ディッキ?」奥から甲高い声がした。「ディッキ知ってるでしょ。大丈夫だから入れてやって」
木と金属が擦れる音が近づいてくる。ドンっと何かがぶつかり、扉が大きく開いた。濃茶の髪を引っ詰めたラグの笑顔を、オレは見下ろした。
安普請の車椅子に座った痩せた姿を目にするとやはり胸は痛むが、努めて陽気に言った。「こんな遅くにごめん。起きていてくれて助かった」
オレを見上げるラグの目が大きく見開かれた。
「ちょっと!どうしたのその血!」ラグは金切り声を上げる。「どこをケガしたの、どんなふうに!?」
服を見ると、思っていた以上の血にまみれている。オレは慌てて否定する。「いや、これはオレのじゃないんだ。怪我人を連れてくるときに」
「そうなんだ」
ラグはホッと息をついた。「ならいいのよ」
「いや、よくはないだろ」その落ち着き具合、落差についていけない。
「で?男?それとも女?」何気ない調子でラグが訊く。
「一応、女みたい」早くしてくれと叫びたい気持ちを抑えて答える。
「みたいとは何だ、みたいとは。剣をもって出迎えるヤツよりよっぽど女らしいわ」
戸口の陰から嗄れ声で文句を言う錬金術師に、オレは慌てて手を差し伸べた。
その様子をさも面白くなさそうに眺めていたラグは、小さく鼻を鳴らすと「確かに可愛らしいお嬢さんだこと。口の方は年増女みたいに悪いけど。何?あんたの許嫁を紹介しにきたってわけ?剣士さん、お帰り願って」
「待て待て待て、左手、左手を見ろって」
ラグは憤怒の形相でオレを見た。「婚約指輪の自慢でもしたいのかしら!?」
「違う違う違う、手を失くしちまったんだよ!縫合希望!こんなに血が出ちまってるだろうが、おまえもビックリするくらいに」
オレは自分の服の返り血を示す。
「何、どういうこと?生きた実験材料を連れてきてくれたってわけ?なんだ、早く言ってよ。生きてるのは貴重だから大歓迎よ」
「何を言っておるのだ、冗談だろう?」
錬金術師はオレとラグを交互に見た。「騙したのか!虫も殺さぬような顔をしておるくせにぃ」
「なによ、ディッキ。まだ子どもじゃない」
急にラグの声音から険が取れた。「うわ、ホントに手がない。急いで処置しないと。奥の施術台に横になって」
「子どもじゃなかったらどうなっていたのだ?」
女はブツブツ呟きながら先に屋内へと入った。
ラグの車椅子を回しながら後に続くオレを振り返った女が、灯火を映す磨きあげた石板の施術台を指す。
「なにやら先客がおるようなんだが」
車椅子に座った状態で施術できるように、通常よりかなり低い台には、痩せた男の死体が横たわっている。
「いけない、うっかりしてた。いま脾臓を取り出してる最中だったんだ。でもここに寝てもらわなくても、そっちのテーブルで縫合はできるわ」ラグはこれも天板が石材であるダイニングテーブルを指した。
「お嬢さん。わたしはだな、治療してもらいたいのではなく、死体の腕を譲ってほしいだけなんだ」
「なんだかおかしなこと言い始めたんだけど」ラグはチラと女剣士に目をやった。
女剣士は剣を収め、目を閉じ腕を組んで壁に凭れている。彼女は神父が領主に掛け合って派遣してもらった護衛だ。
長身にうなじで括った長い黒髪、領主側近のお飾り美少年剣士といった風情だが、剣の腕が確かなことは、その顔に似合わない無骨な手からも感じられる。歳の頃はよくわからない。ラグランティーヌの姉と母、どちらでも通る容姿だ。またどちらへの忠誠心なのか知らないが、守る姿勢は母犬の、いや母狼のようで、少々過剰じゃないかと思える。
「危険はないって判断か。まあ、子どもだし当然かもね」ラグは納得したらしい。
ラグの様子を受けて女が訊いた。「その物々しい剣士は何なのだ」
「あたしの護衛よ。妙な真似したら素材になっちゃうよ。それで腕の件だけど、ちょうどここに二つ、あるにはあるね」
女は遺体の臭いを嗅いだ。「大蒜臭がするぞ。砒素を使っただろう。砒素は身体に悪いからダメだ」
「防腐剤のことね。でも腐らないのがいいんじゃないの」
「わたしの腕にするのだから、毒を含んでいては困るのだよ。それで、次の死体はいつ届く?」
「あのねえ、そんなのわかるわけないでしょ、サリエルじゃあるまいし」ラグは呆れ顔で言い、「とはいえこのご時世、そんなに先のことじゃないかもね。でもまずは傷を見せて」
女は素直に左手を差し出した。
「これはまたキレイにぶったぎられたものね。で、どう処置したいっていうの」
「新しい手を付けたい」
「手があるとして、縫い付けることはできるわよ。でもすぐに腐り落ちるわ。下手したら自分の腕もろともね」
「そうだな。だから新鮮なものをお願いしている」
「そういう問題じゃないの」
ラグはため息混じりに、「他人の肉は身体が受け付けないようになってるの。それにたとえ自分の手だとしても、血管と骨と皮膚はある程度再生するかもしれないけど、腱と神経は難しい。邪魔な肉塊をぶら下げてるだけになるわ」そう言うラグの声には苦さがあった。
「そう、医術ではそれが限界であろうな」
さすがにムッとしたのかラグは眉間に皺を寄せ、「そうよ。しかも他人の手でなんて」
「不可能ではない。我々アンブリストにとっては」
怪訝な顔をするラグに向かって、女は微笑を浮かべつつ会釈した。「申し遅れた。わたしはアンブリスト、いわゆる錬金術師だ。人体、特に己の肉体についてはそれなりに通じていると自負している」
「錬金術師。それこそ眉唾な連中じゃない。あんた、そんなのに育てられてそうなっちゃったわけね。まだ子供なのにかわいそう」
自分も同じ年頃のくせに、ラグはやれやれという風に肩を揺する。「でもだからこそ、これからやり直せる。いいわ、少しだけどあたしがこの世の理ってものを教えてあげる。それからここを出て好きなところに……」ラグはそこでふと口をつぐんだ。
女は困ったように唸り、部屋を見回した。「どうすれば納得してもらえるのか……」
女は施術台の横のチェストに並んでいるナイフに目をやると、その一つを取り上げて燭台の火で炙り、止める間もなく刃を自分の左下腕に走らせた。瞬く間に血が伝い落ちた。
「何してんだよっ、ただでさえ血が減ってんのに」
女は顔色一つ変えずにナイフを戻し、右手指を傷に添えた。その手の甲に複雑な文様が描かれているのが目に入った。以前レッティおじさんにチラッとだけ見せてもらったカバラの書にあるような同心円の刺青。初めて錬金術師らしさに触れた気がした。
「何なの、その刺青。降霊術の魔方陣か何か?」ラグも少なからず驚いたようだ。
と、そこでオレは目を瞬いた。
一瞬意識が跳んだような感覚を覚えたからだが、女を挟んで向かいにいたラグも同じだったようで、頻りに目を擦っている。原因はおそらく、女の左手に焦点が合わなくなったからだろう。
既視感。これは神獣狩りのときの影と同じだ。女の腕に影が現れたのだ。そう思ったときには、影はもう姿を消していて、同時に傷も血も無くなっていた。
ラグは色をなくして呆然と女の腕を見ていたが、恐る恐る両手を伸ばした。女はラグのまさぐるに任せていた。
「はあ」
吐息とともに錬金術師の女は手を預けたままその場に座り込んだ。「これでおわかりいただけたと思うが」
「ちょっと。大丈夫なの、あんた」
「大丈夫。疲れてはいるが、今すぐどうこうはならん」
頷く錬金術師に、ラグは胸を撫で下ろして言った。「というか、あんた錬金術師じゃなくて奇術師だったのね。いったいどうやったの?教えなさいよ」
「見たままだが。切れていた腕から切れていない腕へと意味を操作したのだ」
「意味を?意味なんて実在するの?すべてのものは在るままで、それ以外ではないって言う人もいるけど」
「それは意味と価値を混同しておるのだ。価値は人が決める仮初めのもの。意味はすべてに存在する」
「じゃあ、あんたが言うのは物質の形相ってアレ?人生の意味とか、技術を習得する意味とかとは違って」
「その通り。掘っ立て小屋の主にしては物識りだな。いや失礼、態度を改めよう。こちらから助力を願おうというのだからな……」
女はラグの手を丁寧な仕草でほどき、立ち上がった。「申し遅れた。わたしはプルディエール・デルフト。いまは善なる一なるもの協会に身を寄せている、しがないアンブリストだ」
突然降って湧いた耳慣れない情報への戸惑いを一時棚上げするようにフッと笑い、ラグは右手を差し出した。
「わたしはラグランティーヌ。ラグと呼んでくれてよくてよ」
「では、わたしのことも親しみを込めてプルと」
ラグの手をとる女が微笑するのを見て、オレの頬も緩んだ。
そこでふと、ラグの手を握ったままのプルディエールと目が合った。「そういえば少年。おまえの名前は?」