兄弟子
町と違い、ビブリオテイカの中に入るのは関係者にとっても簡単ではない。リベルや背布の閲覧には事前の申請が必要であり、許可が下りるのにもまた相当時間がかかる。
入館申請が許可された者以外で中に入れるのは、そのビブリオテイカに所属している者だけだ。ビブリオテイカの人間ではない私はもちろん、フィレンツェ所属のディケルも当然押し入ることになるだろう。
石畳の道が登りにさしかかる。ビブリオテイカは城と対をなす丘の中程にある。夜だというのに鳥の鳴き声が夜空をつんざく。不吉な響きに気が急く。
ようやく坂道の先に、周りの倍以上の背丈を持つ石造りの建物が姿を現した。ケルンやノートルダムには到底及ばないが、なかなかに立派なゴシック建築の中央に、半円形の塔が嵌め込まれた格好だ。
その塔の中央を螺旋階段が最上階、四階まで貫いている。フロアの天井が高いため、外観は実際の階数より高く見える。
入口の前の石段に数人の人影がたむろしているのも見えた。思った通り、同行した衛士たちは中に入れなかったらしい。
なぜその時点で一旦全員で引き返さないんだ?
近づくにつれ、衛士たちのだらしのない格好が露になってくる。日が沈んだとはいえ、石段にもたれて座ったり、あまつさえ寝そべっているヤツまでいる。その姿に苛立ちを通り越して呆れ果てる。
が、同時に理解する。
ディケルも小さく毒づくと駆け出した。
「おじさんッ、ヤツら、もう来てやがる!」
「ああ」応えながら、私は最悪の事態を想像した。石段の中央に腰を下ろしている、明らかに他と違う容姿と佇まい。こいつが衛士全員を叩きのめしたのではあるまいかと。
とっくに気づいていたのだろうが、私たちに目を向けるとそいつは物憂げに腰を上げた。そうして山猫のようにしなやかに伸びをする。入口の灯火に照らされた白装束に紅い十字が浮かび上がる。
「半歩遅かった。ヤツらはたったいま中に入ったよ、兄さま」
「おまえっ」叫んだディケルは、湧き出した感情が処理能力を越えたのか言葉を失ったが、相手の名にすべてを込めるように唸った。「……ブランペルラッ」
ディケルの険しい視線をブランペルラは涼しげな目で受け流す。
「こいつら、息はあるのか」ディケルへの対応をひとまず傍に置き、私は護衛の一人に屈み込む。
「半々だね。全員意識はないけれど」ブランペルラがさらりと言う。
「衛兵殺しも捕まらなきゃ平気ってわけか」普段なら迷わず放って行くところだが……いまは若いディケルが一緒だ。
「迷っている暇はないよ、おじさん」
ディケルの言葉に私はハッとしてそちらを見た。
「死んだら生き返らないし、生きてる人はまだしばらく大丈夫。オレたちはとにかく中に入らなくちゃ」
私たちの目的からすればそれが最適解だ。しかしディケルのこの判断を成長と受け止めてよいのだろうか。私はわずかな苦みを喉の奥に感じたが、それこそいまは感傷に浸っているときではない。迅速な対応が求められているのだ。
「少しだけ時間をくれ」
この扉の構造は、以前入ったときに確認している。内開きで、中に閂をかけるタイプだ。分厚い木製の扉と鉄枠の間に隙間はない。閂も金属製だったはずだ。
進退極まった感があるが、備えあれば憂いなし。私には秘策がある。
エルメリらがすんなり入れたことから、手引きした者がこのビブリオテイカの司書か衛兵のなかにいるということだろう。プルディエール嬢にとっては不利な形だ。
ディケルは息のある者に応急手当を施し始めたようだ。私はホッとするが、すぐさまディケルの舌打ちが聞こえる。もはや手の施しようがないのかと思いきや、
「ブランペルラ、おまえ何でここにいるんだ。おまえも一味なのか!?ていうか兄さまってなんだ」
「ん?兄さまは兄さまだが」ブランペルラはそう言って私を見る。「わたしは兄さまに呼ばれたからわざわざ出向いてきたんだよ」
「おじさんが兄さま?」ディケルは毒気を抜かれたように口を開く。「え?じゃあ、こいつはオレの叔母さん?」
「そうじゃあない」
私は革袋の中身を取り出しながら言う。いまここで二人の関係がこじれても困るので、私は説明することにした。「オレはコイツの兄弟子でね」
「コイツの?」
ディケルが唖然として私とブランペルラを見比べる。「でもコイツはプルを殺そうとしたんだぞ、おじさん。そうか、獲物を横取りされるのが嫌だから来たんだな」
「物事は正確に記述しろ、少年。わたしは殺そうとなどしていない。背中の皮を剥いだだけだ」
ブランペルラは無表情のまま言った。「ああ、腕も切り落としたっけな。いずれにせよ些細なことだ」
「些細なことだと!?」
「アンブリストにとってはそうだろう?」
おいおい、火に油を注いでどうする。私は冷や冷やしながら成り行きを見守る。実際には作業する手元を見ているのだが。
「しかし何でここにいるのかと言われれば、そうだな、呼ばれたからというだけじゃない。確かに下心はあるよ。ここに来ればまた会えるだろうとは思ったからね」
「会える?いったい誰に会いたいって言うんだ!」私が口を開くより先にディケルがなじるような口調で訊いた。
「それはもちろん母さまにさ」ブランペルラは馬鹿げた質問だとばかりに両手を広げ、次いでディケルを指差した。「それからおまえたちにも」
「おまえたち?オレとラグのことか?」
薄笑いで肯定するブランペルラにディケルはたたみかける。「母さまって言ったな。誰のことだ」
「まさに殺されようとしているターゲットその人だよ」
今度ばかりはディケルも言葉を失い、手当てする手も止まった。ブランペルラがプルディエール・デルフトの子だと、いったい誰が考えるというのだ。
私はため息をつくと、「ペルゥ、からかうのもその辺にしとけ。ディケル、母さまというのは言葉の綾だ。こいつはプルディエール嬢に命を救われたことがあるんだ」
「聞き捨てならないな、兄さま。わたしは心からそう思っているし、全身全霊をかけてお慕い申し上げているさ」
ディケルの怒りが爆発した。「どの口でそれを言うんだ!?おまえは彼女の皮を剥いだんだぞ!それも嬉々として、より苦しませて!」
今度はブランペルラがため息をつく。「少年。人はときに、いや、わたしのようなまともじゃない人間は、ときに愛ゆえに相手を殺してしまうこともある……と思う。殺したことがあるわけじゃないんだが。ただ、そういう衝動を覚えたことがあるというだけで」
ブランペルラは胸に手を当てて続ける。「愛という一語はしかし様々な感情、つまり同時多発的な精神状態を集約した語だろう。保護欲はときに破壊衝動となる。不幸な状態に陥った相手がわたしに向ける眼差しが、わたしの胸を震わせ、締め付ける。わかってはもらえないだろうか?」
こういうときディケルは生来の生真面目さから理解しようとしてしまう。コイツの思考回路など理解不能だというのに。
プルディエール嬢も気の毒なことだ。気まぐれに命を救ってみたら、命を狙われる羽目になるとは。まあ、殺そうとしているわけではないらしいが、プルディエール嬢にしてみれば大差ないだろう。
「母さまの背中の皮を剥いだのも、まあ、それに近い感覚さね。役割を演じるのに少々熱が入りすぎたのは認めるが」肩をすくめるブランペルラの口調の軽さが、本気か冗談かわからなくさせる。
ディケルの心中やいかに。まともにブランペルラの相手をしてしまうディケルの若さを気の毒に思ったが、すぐにこの場のナンセンスさに思い至った。
「待て待て、そんな話は事が終わってからだ。ペルゥ、時間はほとんど経っていないんだな?とにかく中に入るぞ」




