完全なるリベル
フィレンツェへのビブリオテイカで館長のブルーノ・ティスコ=ダルディに面会し、ディケルを連れ出す許可をもらう道すがら、私は我が師のもとを訪ねた。エルメリの計画について何か知らないか訊ねるためだが、そこで偶然にも妹弟子に再会した。
いつも杳として行方の知れないヤツだが、このタイミングで我が師を訪問しているとはなんたる僥倖。いい流れに乗っている気がする。
私は妹弟子にエルメリの雇い主についての情報収集を頼んだ。いろいろと問題があるヤツだが、腐ってもエフェクタ、とびきり優秀には違いない。すぐに情報を掴んでくれるだろう。
エルメリと会わせることになるため、多少なりとも気が引けたが、当人は歯牙にも欠けていない様子だった。やはり妹弟子相手にその程度のことを気にした私がバカだったということか。
フィレンツェ・ビブリオテイカの館長ブルーノ・ティスコ=ダルディは私の要請を承諾し、今回の件が片付くまでという条件でディケルを連れ出すことを認めた。
私もティスコ=ダルディもディケルがエルメリへの対抗手段になるなどと考えているわけではない。ディケル自身はどうか知らないが、私たちは保険として彼を同行させるのだ。
この甥っ子が影を復元する力は群を抜いている。万が一プルディエール嬢が巻き込まれて死に瀕したとしても、何らかの代償を伴うかもしれないが、死の淵から助け出せるかもしれない。なにせ魚で試したときはうまくいったのだから。
我々としては、プルディエール嬢にはきれいな、つまり瑕疵のないリベルになってもらわねば困るのだ。
完全なるリベル・プルディエール。世界を外側から見ることができると言われているもの。それはいまや教会ーー少なくとも私が所属する派閥ーーの宿願とさえいえるほどなのだ。
それにしても彼女がこれほどの長期間彼の地にとどまっているとは思わなかった。
おかげでフィレンツェと村を忙しなく行き来することになったし、ディケルについている時間が思うように取れず、彼をこちら側に引き込む算段に狂いが生じた。ブランペルラ、あの職業サドのせいで、始めから教会に悪印象を持たれているうえにだ。ディケルはあの女を蛇蝎のごとく嫌悪している。まあ、あいつがラグランティーヌにしたことを思えばそれも致し方なかろう。
しかしあの白頭、ほんとうに厄介なヤツだ。エフェクタのなかでもかなり優秀な方だとはいえ、差し引き得にはなるまいに、教区司教はなぜあんな女を飼っているのか。いや、この私にしても、荒事になる予感がするとき真っ先に浮かぶのがあの白頭なのだから、やはり必要な人材ということか。
とにかくプルディエール嬢を助けることでディケルの教会への対応も変わるはずだ。
この甥っ子は彼女に大きな恩を感じている。もちろんラグランティーヌの脚のことで。
彼女が車椅子から立ち上がったときには、この私ですら思わず神の名を口にしてしまった。代償として利き手である右手の小指が動かなくなったとしても、両脚と引き換えなら納得せざるを得まい。
断裂した腰椎辺りの神経を再生するには、一度影となり腰の損傷箇所の意味を変容させて復元しなければならない。しかし彼女は腰と指とで意味を入れ替えるので精一杯だったようだ。それでも十分驚嘆に値するのだが。
ディケルが未だに手こずっている技術をこれほどの短期間で修得できたのは、ラグランティーヌ本人の才能と努力に加えて、プルディエール嬢の背皮に負うところが大きいだろう。
リベルではない背皮でも、それほどの力を秘めているプルディエール・デルフト、そら恐ろしい。
ただし、いまの彼女は時折垣間見える怜悧な眼差しの他はあどけない子どもだ。前髪を短くするあたりに大人のあざとさを感じるとはいえ、彼女の背中の皮を剥ぐなど到底考えられないし、ましてや暗殺など許されることではなかろう。まあ、あくまで外見に限った話なのだが。
それはそれとして、立ち上がったラグランティーヌの姿と感極まったあの表情、ディケルにも見せてやりたかった。が、当然外出許可は下りなかった。
理屈で完治がわかっていることと、実際に目の当たりにすることには大きな隔たりがある。彼女が歩いている姿を見たとき、ディケルがどんな顔をするのか、今回の件で唯一私が楽しみにしていることだ。ただ、リクトルとなったラグランティーヌに会えるかどうかは領主の心算次第だが。
途中、もはや誰もかえりみなくなった教会の尖塔を見遣るディケルの眼差しには、少し胸が痛んだ。私が領主の要望を聞き入れなければ、二人はまだあの古い教会脇の物置で戯れていたのだろうか。




