依頼主の思惑
日和田は全身に吹き出した汗が急速に冷えていくのを感じて身震いした。覚束ない手つきでゴーグルを掴み、深呼吸をしてからゆっくりと持ち上げる。
全身の筋肉が強ばっている。
これは思っていた以上にヤバい代物だ。防壁が二割ほどしか作用していないかと思うほど、思念の残滓が緩衝材としてのリーダーを抜けてきた。おそらくこの贋作を作ったアンブリストの技なのだろう。
「助かった」ボソッと言うと、日和田は顔を上げた。
ヒソクはゴーグルを受け取りながら、「助手ですから」
日和田は微苦笑すると依頼人に向き合い、一息に告げる。
「これは神経細胞培養シートを使った贋作、ですね。表装の背布とは何の関係もありません。それからこの重さについてですが、はっきりとしたことは言えません」
培養シートの感覚はよく知っている。贋作に使われている確率が高いものは、最初の段階で感覚を叩き込まれた。酷い乗り物酔いのような状態が半月ほど続いた。思い出すだけでも胃の辺りがムカムカする。
それ以上にこの贋作には吐き気をもよおす。
これは殺されたアンブリストがリベルの形に成形されたものだ。
もちろん読書はできないが、そんなことが問題なのではない。
この背皮の持ち主であった者の無念を思うといたたまれなくなる。そしてこのリベルを作った者に対する怒りがつのる。これは背皮の影響ではないが、日和田が普通に共感した結果だ。
この背皮には憎しみ、恨み、そして哀しみが焼き付いている。
その背皮には呪いがかけられている。術師とそれから死にゆくアンブリスト両方の。
数秒、あるいは数十秒とも思える沈黙の後、古書商が震える声で異議を唱えた。
「そんなバカなことがあるはずがない。鑑定を行ったのはあのシェンランなんだぞ」
「背布を生かすための培養シートにも細工してあります。そういう意味では表装は背皮と言えるでしょうね。いまでも生きています」
「なるほど、それは良い報せだ」贋作だというのに、依頼人は満足げに深く頷き、あまつさえ日和田に手を差し伸べた。彼がその手を取ると強く握り返してきた。気分が高揚しているらしい。これはリベルではないのだが、理解しているのだろうか。
日和田は念をおすように、「わかっておいでですかね。これは……」
次に依頼人が戸惑う古書商と握手を交わすのを見て、日和田は口を閉じた。どうやら本当に望んだ結果だったらしい。背皮だけが目当てだったのかもしれないが、日和田に詮索するつもりはなかった。
危険な背皮だが、同期しなければいいだけのことだ。所有自体をとやかく言う権利は、日和田にはない。
依頼人は日和田に向き直ると、知らず高くなった声音で言った。「ところで日和田さん。個人的にお願いがあるのだが……それともやはり仲介が必要なのかな」
「と、言いますと」日和田は怪訝に思いながら訊いた。これ以上やれることはないはずなのだが。
依頼人は初めて笑みのようなものを浮かべ、「背皮を剥がしてほしいんだよ」
日和田は寸時言葉に詰まるが、「剥がすことは可能です。しかしですね、それにはまず復元する必要が」
「ああ、復元するには同期する必要があるのだったね。そして同期は難しいと」
「それもありますが……」日和田はこの背皮の危険性を忠告するべきだと感じる。「武井さま、これは少々問題のある背皮と言わざるを得ません。ベテランの鑑定士でも、いえ、ベテランであればこそ同期は控える、そういった類いの……」
「ご忠告はありがたく思うよ。しかし、だからこそ万一背皮を十全な状態に戻せるのなら戻してやりたいと思わないかね」
「そうですね、戻せるものであれば。とはいえ、ここで復元するのは無謀ではありませんか。中身が無害とは限りませんわけですし」
「その判定はどこでできる?」依頼人が日和田と古書商どちらにともとれるふうに言った。
「シェンランなら。もちろんビブリオテイカでも可能でしょうが」古書商は横目で日和田を見ながら言う。
これ以上関わっても面倒なだけだと、あえて日和田は何も言わない。
そんな日和田の脇腹を、ヒソクが肘でこづく。「ビブリオテイカを推してくださいよ。そうしたらあの背布も処理できます」
「依頼人の同意も得ずにか?冗談じゃない、こっちの信用に関わる」
「どっちが大事だと思ってんですか。あれはですね……」
言いかけたままでヒソクは応接間の入口を振り返った。つられて日和田が目をやると、微かな衣擦れの音とともに家政婦が現れた。
「失礼いたします」深々と頭を下げた後、彼女は依頼人に声をかけた。「こちら警察の方々がお見えになっております」
「警察?」依頼人が訝しげに眉を寄せる。
「ああ、こちらでしたか」
言うが早いか、白衣の女が家政婦の脇をすり抜けて部屋に入ってきた。「案内どうもありがとう」




