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ビブリオテイカ/零葉の錬金術師  作者: 浦早那岐
日和田潤
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助手という選択

 この手の依頼は一ヶ月ぶりだった。

 いわゆる稀書(古書ではなく)鑑定というやつだが、定期的に仕事があったのは始めのうちだけ、彼の師とでもいうべき男がこの国を出てからは、下請の下請という立場すら危うかった。彼は免許取り立ての若造なのだからさもあらん、始めに経験を積ませてくれた先達に感謝すべきなのだろう。

 依頼が少なくなれば収入は減るわけだが、副業にかまけて本業をおろそかにしてしまえば本末転倒だ。もう少しあればと思っているくらいで丁度いい。現状それにも届いていないのはさておいて。

 彼、日和田ひわだじゅんがこの仕事をするのは何も金のためばかりではない。本能的という言葉がはまるくらいーー実際は本能と無関係だがーー意思とは別のところでそれを希求する自分がいるのだ。飢餓感から夢に見ることもあるくらいだが、彼いわく禁煙より余程マシなのだそうだ。

 禁煙様々だなと彼は思う。本能的な欲求に逆らう我慢は、若いうちの苦労と同様、為になる経験だ。それは脳神経細胞網を成長させる。つまり意思による自己制御力が高まるわけだ。

 意思とは、脳の初期設定である本能とは別の神経網であり、それが複雑になればなるほど意思は強固なものになっていく。これは受け売りだったが、彼自身の実感でもある。

 開店までまだ時間がある。スツールに腰掛けた日和田はバーカウンターに両肘をついてボトル棚を眺めながら、新規に入荷するべき酒を模索していた。

 知人の紹介でアルバイトを始めてから十年経った、いまから五年ほど前、自ら望んだわけではないが、礼金十万のみで賃貸契約が自分の名義になった。前店主の姉さんが、世界一周の前哨戦にバイクで日本を回るのだと言って、半ば強引に日和田に店を引き継がせた。彼女はほとんど客みたいなものだったので店の切り盛りに問題はなかったが、半数ほどの足が遠のくのを止める手立てはなく、売上は徐々に落ちていった。

 しかし良くも悪くも現実は予測を裏切るもので、稀書鑑定のという副職にありつけ、なんとか生活している。それも水商売以上に当てにならないものではあるが。


 不意に施錠してあるドアを引く派手な音が鳴った。ノックもなしに開けようとはなってない営業だな、と内心舌打ちしながら日和田が耳を澄ませた瞬間、ドンドンドンッとノック音が追い打ちをかけ、続けて大きな声が響いた。

「マスタァ、わたしです、ヒソクですよぉ、いるんでしょお。もう六時ですよぉ、早く開けてくださぁい」

 開店時間は七時だっての。日和田は深くため息をついた。

 ドンドンドンッ

「マスターッ、助手の初仕事なんですよぉ、打ち合わせとかあるでしょおー」

 そうだった、と日和田は思い出す。今回はいつもとは違うのだ。

 日和田はドアを見やって長嘆息する。

 助手か……これは正しい選択だったのだろうか。


 

「これ何だかわかります?」

 おおよそ一年ほど前、トニックウォーターのグラスをコースターに置く日和田の鼻先に、客の女はフェルトほどの厚さの布切れを振った。

 細身だが痩せている印象は受けない。肌は青白く、髪と眉、それに睫毛まで白い。

 アルビノかと思ったが、後に聞いたところ先祖返りだそうだ。それに正確には白ではなく限りなく白に近いプラチナブロンドだとか。

 とにかくそのときは外見から興味が湧いたこともあり、開店には少し早かったが、用意はできていたので座ってもらった。ただ、一見の客がほとんどないテナントビルの最上階だけに少々嫌な予感もしていた。

 それが当たってしまったと日和田は一瞬顔をしかめた。妙なものを売りつけようという輩は結構いるのだ。地方都市の名産だとか、当人手作りの民芸品だとか。

 日和田はことさら平静な調子で、「さあ。お掃除の人が落としていったのかな。店の前に落ちてたんですか」

「あはは、誰かが落としたものじゃないですよぉ。わたしが持ってきたんです」

 女は変わらない笑顔で言うと、「こうすればわかるかな」

 カウンターの上に広げて置かれたものを見て、日和田はハッとしたが、面には出さなかった。火傷したときも、アイスピックで指に穴を開けたときもそうだが、動揺を反射的に隠すのはカウンターに立つ者のデフォルトである。

 それが布ではなく、ある特定の動物の皮だということは、そこに描かれた文様を目にした途端に理解した。同心円と飾り文字。普段目にする機会は少ないが、とても馴染み深いものだった。

「珍しいものなんですか」日和田は文様から目を逸らして言った。少し不自然だったかもしれない。

「そうですね……でも、あるところにはたくさんありますよ。それで……見たことはあるんですね」

「いや、知りませんね。刺青に興味ないし」

 そう言ってグラスを磨き始める日和田はもちろん知っていた。『この手の仕事』で扱うのはまさにこのようなものだからだ。

 そうでなくても幼い頃から、それはずっと呪いだった。確かに直接見たことはほとんどない。誰にとっても自分の背中を直接見るのは難しいはずだ。

 もちろん自分で入れたわけではないし、無理やり入れられたわけでもない。刺青ごと、それは他人の皮膚なのだ。

「そうですか、残念です。おっと」

 客の女はカウンターに広げた皮を取り上げようとして指を滑らせた。端切れはカウンターを越えて日和田の手元に飛んできた。

 反射的に、彼は受け止めようとした。刃物などでない場合、これは人間とってデフォルトな反応である。

 皮に触れた瞬間、指先に痺れが走った、ような気がした。

 結果彼はすべてを手離した。床でグラスが割れた。

「ごめんなさい、わたしのせいですね。弁償します。怪我しませんでしたか」

「……大丈夫」日和田の返事は明らかに遅かった。

 彼は顔を上げることができなかった。客の女がじっとこちらを見ていることはわかっていた。

 手を離してしまったのは痺れのせいではなかった。

 フラッシュバック。

 ほんの一瞬だったが、あの火事の記憶が鮮明に思い出されたのだ。いや、その時その場所に舞い戻ったかのような臨場感に包まれて身がすくんだのだ。

 しかしそれがあの場所だと理解したときにはもう霧散していた。自分の記憶ではないかのように跡形もなく。日和田は細く息を吐いて落ち着こうとした。

 その時になって気づいた。

 すぐ近く、耳元に、あるはずのない息づかい。

 いつの間にか客の女が背後に回っていたのかと思ったが、背中とボトル棚の間にそんな隙間はない。

 それでも何かがすぐ後ろにいた。目の端、形もはっきりとしない、反射した光のような白いもの。

 客の女、コイツを見ていたのか?

「ここにいますか?」女がカウンターから乗り出して彼に手を伸ばした。

「グラスが足に刺さった。痛くて動けない」日和田はくぐもった声で言った。

「それはたいへん」女がカウンター内に回り込もうとした。

「来るな!」日和田が意図したより厳しい口調になった。

 屈んで皮を拾い上げる。「カウンターの中はオレの聖域なんだよ。大丈夫だからコレ持って、帰れ」

 客は笑みを潜めて端切れを受けとると「わかりました。この借りは後日お返ししますね」

「来るんなら営業中にしてくれ」日和田は二度と来るなとは言わなかった。このまま忘れていいこととは思えなかったからだ。

「あはっ」女は初めて本物っぽい笑い声を上げ、「わたし、ヒソクっていいます。よろしくねマスター」と閉まる扉の隙間から手を振った。「お大事に」

 このときにヒソクは気づいていただろう。日和田自身、まったくお粗末なごまかし方だったと思う。しかし正直に話したほうがよかっただろうかなどと考えたことはない。わからないことがあまりにも多過ぎた。それはいまも変わらない。

 ヒソク、刺青人皮、目の端の影。

 そしてあの火事のとき日和田に皮膚を移植して消えた人物。二十年経っても色褪せない興奮。しかし鮮明に思い出せるのは心理状態だけで、実際の火事についての記憶はほとんどない。

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