錬金術師の少女
「おい、止まれ」
不意に背中に垂らした三つ編みを引っ張られ、逃げることに必死だったオレの意識は前方の藪からズレた。
「止まれと言っているのがわからんのか」
風邪をひいた老婆が、腫れ上がった喉でなんとか声を絞り出したようなしゃがれ声を上げながら、女は何度もオレの髪を引っ張るのだが、その力は弱々しい。
「血が……足りなくなる……このままでは……死……」声も急速にか細く頼りなげになっていく。
オレは低木の天蓋の下に潜り込んで止まった。ほとんど黒のような濃い茶の外套にくるまれた身体を下ろした。
見ると自分の左腕を押さえている女の右手が血まみれだ。手首から先がない。
声をかけようとしたが、カラカラに乾いた喉は隙間風のような音をたてただけだった。
それに彼女の腕を切り落とした集団の一員であるオレにいったい何が言えるだろう。
どうしていいかわからずオロオロしているうちに、外套の人物は提げていた頭陀袋から細紐を取り出し、口と残った右手を器用に使って左手首を縛った。
「おい、ぼうっとしていないで手伝え」
頭巾の奥からしわがれた声がした。歳について確かなことはいえないが、女には違いないようだ。オレは言われるがまま珠や包帯を使い、袖をまくった女の脇の動脈を押さえつけた。
「よし。とりあえずはこれでいい」
女は頷いたが、傷口を露出させたままでは感染症や壊疽の危険性があるのではないか?こんなときあいつがいれば……などと詮ないことを考えていると咳払いで現実に引き戻された。
「聞いているのか、少年」
「あ、ああ、すまん。どうしたんだ」
「頼みがある」荒い息遣い。「難しいことは言わん。腕だ……」
「うで?」
「そう、腕だ」苦しそうに一息つくと女は言った。「死体の腕を持ってこい」
オレは意味がわからず、黙ったまま頭巾の奥を見つめた。いったいなんの冗談だ?
「もう一度言う……腕だ、少年。人間の腕が必要なのだ……ありふれたものだろう?実際この場にだって三つもあるウゥ……」女は低く呻いた。ゆっくりと呼吸し、強張った肩の力を抜くと、老婆のしゃがれた声を吐きこぼす。「……それをたった一つ、しかも死体のものでもよい……腐ってさえいなければな……」
「えーっと」オレは眉間をつまんだ。「死体の何がなんだって?」
「腕だ、手だよ、手。手を持ってこいと言っておるのだ。言葉が通じておらんのか?死体、手、持ってくる。犬でもわかることだぞ」
女は右手で頭巾を払い除ける。長い白髪がこぼれ落ち、汗で額に張り付いたそれを無造作に掻き上げた。
老婆ではなかった。むしろ年下かもしれない。神獣とは魔女のことではないかと、人とわかってからおぼろげに思ってはいた。白く長い髪、しわがれた声、頭巾付きでぶかぶかの黒衣。吹き出物がある長い鼻の老婆が現れるとほとんど確信していた。
それがどうだ、同じ年頃の、異国の女の子だったなんて。自分が見ているものが信じられなかった。夢を見ているに違いない。
「おい、このでくのぼう」
額に小石が当たった。「いて、いきなり何すんだ」
夢じゃない。
「夢を見ているような呆け面をしおって。悠長にやっている暇なぞないのだぞ。とっとと行って、腕を拾ってこい」
「どこへだよ。腕腕って、そんなのまず死体がいるじゃないか。いまのご時世、人死にが珍しくないからって、教会にだっていつもいつも死体が運び込まれたりしないぞ?それがこんな山んなかになんかあるわけないだろうが。それに取ってきたとしてどうするってんだよ。ブドウの継木のようにくっつけるってのか」
「それ以外どうしようがある。それに死体の当てならある。わたしが出てきた藪の先に一つあるはずだ」
怯んだオレは恐る恐る訊いた。「あんたの手と関係あるのか」
女は忌々しそうに舌打ちした。「ブランペルラ……思い返すも腹立たしい、女性隷属主義であるところのローマの犬め。教会も一枚岩ではないとはわかっているつもりだったが……案内役にはかわいそうなことをした」
死体はその案内役というわけか。
「あんた、魔女なのか。で、異端審問官付きの殺し屋に狙われてる」
「魔女ときたか」
苦笑した女は、居住まいを正して自らの胸に手を置いた。「ひと働きしてもらおうというのだから、それなりに礼は尽くそう。わたしはアンブリスト。いまは善なる一なるもの協会に身を置いている。魔女ではない」
オレは顔をしかめた。「アンブリストってなに」
女はフッと息を吐いた。「こんな辺鄙な村の住人では知らぬも当然か。アンブリストとはラテン語の影、アンブラから派生した呼び名だ。錬金術師の一派だよ」
「影、か。なるほど確かに」辺鄙な村というところは聞き流してオレは言った。
「この先の町にある支部まで影のまま行くつもりであったが、なぜかこうして姿が戻ってしまった」
「もう一回影になったら」
「そうそう続けて影になるものではないのだよ。それにそれなりの準備も必要であるし。さっきは影になる瞬間の無防備なところを狙われて腕を取られた。助けようとしてくれたことは理解しているが、おまえのことを全面的に信用したわけではないのだぞ、辺鄙な村の少年よ。わかったならさっさと行け」
「嫌だよ。殺し屋がいるんだろ」意趣返しというわけじゃない。普通に怖い。
「いちいち細かいことを」
女は唇を尖らせ、拾った小枝でオレを指した。「一応確認するが、おまえたちは神獣狩りの輩なのよな」
「そうだけど」
後ろめたい秘密を言い当てられたかのように鼓動が速くなった。オレたちは大勢でこいつを追い回していたのだ。誉められた所業ではない。
「ならば心配することはない。神獣狩りにおいて我らは絶対的に受け身なのだ。獲物は狩人に危害を加えたりはせん。基本的には。そういう取り決めなのだ。いかにヤツがアンブリストではないとて、ローマの犬。我が協会とこの地の領主、そしてローマとの古からの約定を違えることはない」
女は厳かに言ってから「はずだ」と余計な一言を付け加え、「そういうことだから安心して死体の左手を回収してこい」
領主との約束?いや、だったら余計に意味がわからない。こんな子供を大の大人が寄ってたかってどうするつもりなんだ。錬金術師だから?確かにはじめは影だったし、普通じゃないのだろうけど。
「女にいつまでも片腕でいろと?追い回されて息も絶え絶えなうえに?」
それを言われると弱い。「わかったよ。でもばったり会っちまったらどうしたらいい」
「月がきれいですねとでも言えばいい」
「本当に?」
「いいから早く行け。お前に引っ張り回されたおかげで、わたしが失血死してしまう前にな」
もう行くしかなさそうだ。
「ここに居てくれよ」ぞんざいに手を降る女を横目に、オレは山道に向かって垂直に斜面を登り始めた。