血の儀式
予想以上に礼拝堂の天井は高く見えた。不安も期待も忘れ、エトは思わず見惚れてしまう。
これが奇蹟を信じる心持ちってヤツ?
「やあ、これはこれは終の姫君、ご機嫌麗しゅう」
祭壇の前に佇んでいた人影がゆっくりと動き出す。黒い祭服。きついウェーブのかかった黒髪は天然なのか。口髭と相まって少々胡散臭い雰囲気だ。
「ツイの姫君?終の住処の?いえいえ王族の末裔ではありません、司祭さま」エトは会釈した。「はじめまして。あたしは紫乃宮エト。生まれも育ちも中流家庭、のはず。たぶん」
「ハイ、はじめまして」
濃い眉を上げ、神父も軽く頷く。「んー、そうか、知らないか。Pはそう呼ばれていた。教会のアンブリストたちから、“終わらせる者”と」
「終わらせる?何をですか」
「さあ。いくつかの解釈がある」
「そうですか。でもあたしには関係ないですから」
「そうかそうかー、ではまあ、確かめさせてもらおうか」
「ちょい待ち」吟が割って入る。「こっちも確かめさせてもろてええかいな。そもそも士郎司祭はん、あんたがレッティアーノのリクトルで合うてんねんな」
「キミは?」
「杜松吟、立ち会いのクラスメイトや。それであんたは?」
「ちょっと、失礼だよネズギン」エトが小声で咎める。
「失礼もクソもあれへん。確認とれへんのやったらこの話はわややわ」
「わやってなに。魚介系?」
「それはホヤや」
吟は一瞬たりとも司祭から視線を外さず続ける。「ええか、アンブリストに限らず、アンブリストのんを身に着けとるもんも嘘つくんを避けるもんや。現実から乖離したないからな。そこはそのおっさんもおんなじはずや。ほんで明言を避けとるんはおかしないか。自分はレッティアーノのリクトルや言われへんてのは」
「偽物っていうの?何のためにそんなことすんのよ」
「さあな。さっきおっさんが言ってたことが関係すんのかもしれんな」
「終の姫君ってヤツ?」
「おおい神父さんよ、最後にもう一回訊くわ」
エトを無視し、吟は司祭に問う。「あんたはレッティアーノのリクトルなんか?」
二人の会話中に神父も携帯で誰かと通話を始めたらしく、「ああ、悪いが頼むよ。もちろん礼はする。ではよろしく」
「何や、話の最中に電話かいな。こちとら、さっきから何べんもレッティアーノのリクトルなんかって訊いとるんやけどなあ」吟が苛立ちも露わに声を張る。
携帯をポケットに落とした神父は問いに答えず、薄笑いを浮かべてゆっくりと近づいてくる。吟は舌打ちした。「チッ、しゃあないの」
ガチッと音がして、見ると吟の手には四十cmほどの伸縮式警棒が握られている。
「ちょっと、何する気⁉︎」
「おまえは伏せとれや」
「ではでは、お手並み拝見」神父は軽く片手を振った。
キキンッと金属音が響く。
「暗器かいな、物騒なお試しやな」警棒を振り下ろした吟の低い呟きが聞こえる。
神父がゆっくりと距離を詰めつつ、今度は両手を振った。
吟は身体をよじりつつ警棒で何らかの金属器を弾くが、どうやら足に一撃食らったらしく、バランスを崩してベンチに手をついた。
「あかん、しくったわ。運良く刺さらんかったけどや、ものごっつう痛いわ」そう言う吟の制服の太もも辺りが破れている。
「ちょっと大丈夫!?ボディガードなんでしょ、頑張ってよ!そんな針の一本や二本さ」
床に転がった千枚通しのような大型の針を見てエトが言う。「たいして重くなさそうだから、当たっても刺さんないんでしょ。特攻しなよ、特攻」
「アホゆうな。コレ鉄ちゃうで、たぶん銀や。比重は鉄の一・五倍。見た目より重いで。先に重心がきとるし、えげつない暗器や。あの神父マジでヤバいヤツやわ」
確かにヤバい。教師の障害沙汰なんてどう隠蔽するんだろ。校長の心配はこういうことだったのだろうかと気の毒に思いながら、エトは改めて千枚通しを見る。
「なんか見たことある感じがする。それもつい最近」
エトは記憶を辿る。「あ、思い出した。ブランペルラが使ってたヤツだ」
「なんやて?あの悪名高いエフェクタかいな。ここの神父、それのフォルマ持ちなんか?」
「ギンッ」エトが叫ぶのと同時に、神父が二人の目の前に現れた。
「どんな身体能力して」振り抜いた警棒が宙を切った次の瞬間、吟は蹴り飛ばされてベンチの間に倒れ込む。
ギンッ
もう一度エトは叫ぼうとしたが、その声は喉元で神父の手に握り潰された。
ぐうの音も出ないって、まさにこのこと。
エトは高まる顔面の圧力下で仕様のないことを思う。
両手で神父の手を押し退けようとするが、微動だにしない。
「エトッ」吟が素早く起き上がると同時に駆ける。
神父が警告する。「へし折るぞ」
その間にも吟は間合いを詰め、躊躇なく警棒で神父の腕を下から切り払うように叩き上げた。
しかしすでに神父はエトの頸から手を離して半歩下がっており、吟の振り上げた警棒がエトの鼻先を掠めた。
「うおっっととと」
吟はもう一方の腕でくずおれるエトを抱き止める。エトは激しく咳き込んだ。
「危な、澄ました鼻先潰すとこやったわ」
「Pが客体状態ってのは本当だったみたいだな。でなければ、宿主の危機に出てこないはずがない」
神父はぞんざいな口調で言うと、両手を上げる。「私がレッティアーノのリクトルで間違いない。試すようなことをして悪かった。しかしPが相手となれば用心しすぎるということはないからな」
涙と鼻水を拭くことも忘れ、エトは信じられない思いで神父を見た。試すようなこと?
「けったくそ悪い常套句やな」
吟はそう吐き捨てるが、ため息をついて続ける。「けど正しいわ。万一P自体と繋がってもうたら事やさかいな」
エトは唖然として神父から吟に視線を移す。正しい?
「それもある。しかしPにレッティアーノの記憶を見せたくないというのが本当のところだ」
「けどやっ」吟が声を上げる。「この傷どないしてくれんねん、制服も破れてもうたやんけ!」
「おのれの制服がなんぼのもんじゃい!!」エトは激しく吟の尻を蹴り上げた。
「なんや!?」吟が尻を押さえながら振り返る。「なにしよんねんっ」
「それはこっちの台詞じゃ!こちとら死にかけたんじゃ、ふざけんな、おまえら二人ともふざけんなーッ」
エトは両手を握り込んで雄叫ぶ。
「まあ落ち着け、お嬢ちゃん。心配せずとも痕なんか残っておらんさ。気持ち良く失神するところを、少しだけずらして落ちるまで地獄の苦しみを感じるようにしただけだ」
「感じるようにしただけだ」神父の口まねをしたかと思いきや、エトは右手で鋭く宙を薙ぎ払う。「じゃないわー!この人でなしがー!地獄の苦しみ言ってるやないか!」
「わかった、エト」吟が割って入る。「このおっさんには後できっちり詫び入れさせるよって、一回落ち着こ。頼みがあるんはこっちやし」
「フーッフーッ」肩で息をしつつもエトは止まった。さすがはアンブリスト修習生というところか。
納得いかずともエトが何とか怒りを留保したところで神父が口を開く。「それで、我が背皮のどういった記憶をご所望かね」
エトは生唾を飲んで言う。「プルディエールに関係する記憶を」
「なるほど。しかしそう多くはないはずだ。それにすべてを晒す気はないよ」
「は、い」加害者に敬語を使うのにはまだ抵抗がある。「ただ、時系列的にラグランティーヌと出会った後のプルディエールでお願いしたいんだ、ですけど」
「いいだろう。おあつらえ向きのエピソードがある。ただ……」
神父は真顔になる。「そもそもキミの要求がどういった類いのものなのか理解しているか?リベルではなく、背皮の記憶を覗こうというのだよ?いいかね、背皮というものはリベルや背布というものとは違って……」
「記憶が追加され続ける、そう言いたいねやろ」後を引き取って吟が言う。
「そう。受け継いで以降の私的な部分を晒す覚悟が必要だということだ。少なくともその可能性を考慮しなくてはならん。いかに隠そうとしても可能性はなくならない。しかも君たちは教会の人間ではない」
「この期に及んで見せたないっていうんか」
「こっちだってそういうの見る気ないですから」エトははっきりと言う。
「そうか。波乱万丈の半生記なんだがな」神父は悪戯っぽく笑う。
「見せたいんか!」吟が突っ込む。
どうにも調子が狂うとエトも思う。
「そういえば対価の話をしていなかったな」神父が言う。
「言ってください。相応の覚悟はしています」
「結構だ」神父は満足げに頷く。「では、同じものを対価として要求しようか」
予期していたとはいえ、やはり即諾できない。「ちょっと変態っぽいのはこの際仕方ないのかな。でもあたしの記憶は……」
「よっしゃ、決まりやな」
馴れ馴れしく肩を叩きながら勝手に代返する吟の脇腹に、「何であんたが答えんの、よっ」と、エトはややきつめの肘鉄を食らわせる。
「イツツ……エエやんか、覚悟決めてんのやろ。それにな、馬鹿正直に言うことあれへんねん」
「な、何であんたが知ってんのよ」
「噂や、噂。つうか、ホンマやったんか」
「あたしって、そんなに有名なわけ?」
エトは面食らうが、「でもね、アンブリスト候補生として、嘘は許されないでしょ」
「嘘はついてへんやろ。相手が勝手にそう決め込んでんねんから」
「それをわかった上で何も言わないのは、あたし的には嘘ついてんのと同じなの」
「ま、そうやな。おまえはそういう……」
ゴホン、という神父の咳払いで、知らず知らず顔を寄せ合っていたことに気づいた二人は、慌てて身を引く。
「対価は記憶、といつもなら言うところだが、今回は別の頼みをきいてもらうことにしよう」神父が言う。
「別の頼み?いったいどんな……」
「あるリベルを探してもらいたい」
「リベルですか。それで名前は?」
「それは事が済んでから話す。これから始める読書に差し支えるかもしれないからね」
「わかりました。最善は尽くしますが、少なからずビブリオテイカの裁量にかかってますよ」
「ああ、ビブリオテイカか。それは問題ない」神父は頷き、両手を合わせる。「決まりだな。それでは早いところ済ませてしまおうじゃないか。忙しいというのは校長の口癖だが、本当のことなんでね」
神父は祭壇の脇に顎をしゃくった。「朗読は専用の部屋で行う。お互いの立会人は外で待機。どうかね」
「しゃあない。決まりには従う。けどや、そちらさんの立会人はどこやねん」
「キミが立会人だと聞いたときに呼び戻しておいたからそろそろ来るだろう。キミも顔馴染みじゃなかったかね」神父はエトを見て言う。
そういえば、とエトは神父が携帯で喋っていたことを思い出す。でも知り合い?それは失われた記憶の一部を構成する人物って意味?ってことは、このサド神父も?
「ところで」神父は探るような目付きで吟を見遣る。「見たところキミはアンブリストでもリブラリアンでもなさそうだが、どういう関係でここに?」
「幼馴染みやねん」
「誰がじゃ、転校生!」エトキックが入る。
「イタッ、突っ込みで蹴り入れてんちゃうぞ。あのな神父さん、オレは図書館関係者や。それで十分やろ」
「なるほど、お目付役というわけか……しかしキミは言葉遣いがなってないね……」
吟は舌打ちする。「会うて早々針飛ばしてきた人間に言われたないわ」
「それもそうだな」神父は少し愉快そうに口髭を持ち上げた。
「ちょっと、お目付役ってどういう意味?」
「おっさんがなんや勘違いしとるんちゃうか」吟は天井を見上げ、「シノミヤ、こりゃ確かになかなかのもんやな」
吟の言葉に、エトも上方を仰ぎ見る。
さまざまな波長の光が降り注いでいる。
静寂。
気持ちを落ち着けて礼拝堂の空気と色を感じてみると、さっきまでの乱闘が嘘のように厳粛な雰囲気に包まれる。
ああ、確かにこれは悪くない。エトが思考を止めて浸りきろうとした瞬間、勢いよく礼拝堂の扉が開かれた。
「あー、しんど。先生、人使い荒すぎじゃん?」
息を切らしているのは、先ほど礼拝堂横で声をかけてきた赤毛の女子生徒だ。「って、あんたたちやったん?まあ、タイミング的にそうなるか。ハァ、読みたいって言ってんの、そっちの男?物好きやなあ、あんた」
赤髪を掻き上げ、首筋に風を送りながら呆れたように言う。
「チッ」吟が顔をしかめる。
「違うの、読むのはあたし」吟の失礼な舌打ちを打ち消そうと、即座にエトが言う。
「へ?いまさら?」
「Pが機能不全らしくてね……それよりラカ、ここに関しては静かにといつも言っているだろう」
「ごめんなさい、先生。けど、急かす先生も悪いんだよ」そう言いつつ彼女はまじまじとエトを見つめる。「……あんた、何かあった?」
それはこっちが聞きたい、とエトは思う。この女が知古だというのなら。「あのさ」
話しかけようとするエトを吟が押し退ける。「ハイハイ、こっちも時間ないんや。神父さんもお忙しいんやろ?さっさと始めて、とっとと終わろうやないかい。エト、敵かもわからんヤツと馴れ合うなや」吟はこれ見よがしにささやく。
「は?何こいつ。けどまあ、先生の前でキレるのもアレだし、さっさと終わらせましょう。あんたらと違って先生はホントにお忙しい方だから」
背皮を読むだけでなく、直接話を聞いてみたくなった。が、それはいまじゃなくてもいいと、エトは誘惑を振り払う。
神父は興味ありげに片眉を上げて成り行きを見ていたが、小さく息をつくと「なるほど。まあ、せいぜい頑張りたまえ、ネズミくん。手に負えるものならな」
「誰がネズミやねん、ネズや。お約束のボケかましてくれよって。それにな、あんたに心配されんでも大丈夫や」
「そうかね。ところでお嬢さん、同期深度はどのように?表皮電気かね、それとも血液循環でもしてみるかい」
「アホ言うな」エトが答えるより早く吟が鼻で笑う。
「バカ言わないでください、先生!変な病気でも貰ったらどうするんですか」
エト自身、病気なんか持っていないと言い切れないところが辛い。身に覚えがないことに覚えがないのだから。
「血管を繋ぐわけじゃない」
神父は皆を促して歩く。いったいどんな部屋なのだろう。エトは不安と好奇心がない交ぜになった気持ちで後に続く。プルディエールが背皮を剥がされた拷問部屋みたいだったらどうしよう。
ここだ、と示されたのは礼拝堂の隅、懺悔室のようだ。映画で見るものより少し大きいかもしれない。
「そもそも秘蹟を行う場所だ。ちょうどいいだろう?」
「いかにもローマらしい言い方やな」
「機密、と言った方がお気に召すかな?」
神父は扉を開けて中を覗き込む。カーテンではなく、鉄の補強材が打たれた頑丈そうな木戸だ。真ん中の仕切りにも鉄板が入っている。指も挿せない小さなパンチ穴が整然と並んでいる。
「始める前に固有名を教えておこう。レッティアーノがプルディエール・デルフトに関わった中で最も重要な話の一つ、その最初の舞台はおそらく酒場だ。そこで同僚の……まあ、そいつの名はいいか。とにかくそいつと飲んでいて、ある計画の噂を聞くんだが、その中心人物がエルメリとデサンジという男だ。あとアンメルルという名も覚えておいたがいい」
「アンメルル、それにデサンジとエルメリね……それはどんな計画ですか」
「それは読んでのお楽しみだ」
その通り。「じゃあ、早くしましょう」エトは逸る気持ちを抑えきれない。
エトが小部屋の木の椅子に座ると、真鍮製と思しき器具が目の前に二つ並んでいることに気がついた。
「それが何かは知っているだろう」正面の格子の向こうから神父が言った。
「ラーメン屋で見かけるアレ?」
「知らないのか。まあ、レンゲに似ているといえば似ているが……そんな針がついていたら、口にちょっとでは済まん傷を負うよ」
「確かに」注視すると、窪みの中心から画鋲の針のようなものが突き出ている。それに柄が、傾斜している細い金属菅に繋がっている。形は左右対称。両手に一つずつということだろう。
「通常はそこに親指の腹を刺す」
エトはわずかに顔を引きつらせるも、「深く読み込もうとするなら、それくらいは仕方ないか」
「いや、それはあらすじを読む場合だ。当然だろう。出血量が足りない。塩水を流して繋いでも、薄まると情報もまた然りだ。手前中央にあるボタンを押してみたまえ」
「これ?」
シャンッ
鋭い金属音がして両方の針が十倍近い長さに伸び上がった。途中から段違いに太くなり、細い溝が走っている。これで肌を貫けば、かなり出血するだろう。
改めてよく見ると器具には緩やかな起伏があり、針が突き出ている部分には親指と人差し指の間辺りがピタリと合いそうだ。針に裂かれ溢れ出した血は、左右二つのレンゲ様の器具の柄から伸びている管を通り、向こうから流れてくる相手の血と繋がるのだろう。
そうしてお互いの両手を繋げた環ができる。そこを意味の力が循環し、意識も繋がるというわけだ。
「それが熟読用だ。かの聖遺物を模したとも言われている。それが親指と人差し指の間の肉を貫いて血を吸い出す。もちろん私はそんなことしないがね。キミの血がこちらに届きさえすれば、私は親指で事足りるし、そもそも毎回そんな傷を負っていられないだろう?」神父は事もなげに言う。
「そうですね。お願いしたのはあたしだし。けど、親指とはいえ神父さまに針を刺させるのは気が引けますね」エトもまるで怯む様子がない。
「それくらいは構わないよ。こちらもお願いをきいてもらうのだからね」
「ありがとうございます」
エトは軽く頭を下げた。「じゃあ、早速お願いしていいですか」
言いざま、エトは右の掌、親指と人差し指の間を針に叩きつけた。
ドン。
エトの眉間に皺が寄る。
「おお」神父が驚いたように声を上げた。「半ば冗談のつもりだったんだが」
「ちょっとなにそれ!イテテテテテッ」掌を縫い止められていることを忘れて急に立ち上がったエトは痛みに声を上げる。「うう……しばく」
「お気の毒に……だがねキミ、そもそも同期の必要さえないんだよ。私が話して聞かせられるのだからね。もっとも、私を信用できるなら、だが」
神父の嘆息が聞こえる。「そうしなかったということはつまり、私の信用性云々もあるだろうが、私が読み取れないでいる深層部分を覗きたいということだろう」
小さなパンチ穴から神父が覗き込んでいるように感じる。「だから結局こうするのがベストだし、冗談にはならない」
知ってたらちょっとは考えたのに。エトはそう思うが、口には出さない。
「まあ、その心意気に免じて、私も痛みを共有しようじゃないか」
言うが早いか、向こう側でも針を伸ばす音がした。
続いて微かに振動が伝わってくる。竹串に肉を刺すような。神父は一息に刺し貫かず、じわじわと肉を掻き分けるように針を通している。
「マゾなの?てっきりサドかと」ぞわぞわとする背中の気持ち悪さに、一瞬エトは手の痛みを忘れる。
「宗教家は多かれ少なかれその気があるものだ」
神父は細く息を吐くように言う。「さあ、もう一つの手が残ってるぞ」
「××××」エトは暴言を吐く。
「おやおや、若い娘がそんな口をきいてはいけないな」神父は楽しげに笑う。「まあ、気持ちを整理する時間がいるだろうし、今度はわたしから」
気持ちの整理?ナメられてたまるか!エトは左掌を針と呼ぶには禍々しいにあてがった。
「ンガーッ!」叫びとともに、エトは覆い被さるようにして一気に体重をかけた。新たな激痛が襲う。目尻から涙が伝い落ちる。
「クックッ、では始めようか」神父の愉快げな声がした。
このサドマゾ神父め……でもこれで何かわかるはず。
金属管を互いの血が伝う。
すぐに二つの流れは出会い、混ざり、一つの環になるだろう。
浅い呼吸を繰り返していた口を閉じ、エトはごくりと喉を鳴らした。
痛みが引いていくにつれ、この現実も薄れていく。
そう、いつもの感じだ……
また物語が始まるーー