Pの背皮
肌のことを考えていたからか、不意にさっきまで読んでいたリベルの凄惨な、背中の生皮を剥がされている場面が思い出され、エトは身震いする。
と同時にエトのなかで声がした。
『いまの娘が言うように、会えば必ず挑発的な態度をとるのも如何なものかな』
音声というには直接的な、鼓膜を介さない認識として意識に割り込んできた。
「そう思うなら、あんたが謝れば?」言ってから小さく息をつく。「あいつ、いい子ちゃんだからイラつくの」
いい子ぶっているのではなく、正真正銘の優等生だ。エトにしてみればマジメで取っつきにくく融通がきかない堅物で、何の面白味もない。亜生によれば二人きりの時はよく笑うし冗談も言うらしいのだが、まるで想像がつかない。
逆に亜生は人懐っこく表情豊か、そしてお姉ちゃん大好き。けれど優等生に敬遠されているのか、一緒にいるところをエトはあまり見たことがない。むしろそれが、外見以外似ていない一卵性双生児が仲良しでいる秘訣なのかもしれないとエトは思う。
いや、他にも似ているところがある。エトには二人が二人とも本音を隠しているような気がする。本音というか、自然体で発せられる言葉、態度というものを。もちろん、常に感じるわけではないし、アンブリストやリブラリアンを志している修習生は皆そういうものかもしれないが。
『イラつくとはまたアンブリストらしからぬ台詞だな』
視界の袖からふわっと白いワンピースを着た少女が現れると、金色の長髪を揺らして言う。Pだ。『それで、わたしは双子のどちらに謝ればいいのかな』
「あのね、話の流れわかってる?ワカに決まってるでしょ。てか、ホントに謝ったら許さないからね」
エトは睨みつけようとするが、Pは視界の端へ端へと身を躱す。網膜の外側にいるわけではないからだ。
『わたしの声はおまえ以外には聞こえないがね』
「そうね、こうしてるのもハタから見たら独り言。おかげで変人扱いよ」
『思考会話にすればよかろう』
「いつも言ってるでしょ、わたしはあんたを背負わされただけの憐れな、ただの子どもなんだって。思考会話なんて芸当、できないの」
『そうかな。わたしを背負う者がただの子どものはずはあるまい。意味の操作はできるというに……そうだ、無視するという手もあるぞ』
エトはPの言葉を聞き流し、「ああ、それから夜中のトイレで横から覗き込まないで。そのうち心臓止まると思うから」
『慣れる方が早かろう』
エトは鼻筋にシワを寄せてつぶやく。「ホント、ウザいったらない」
Pとは、亜生が背に貼り付けていた背布のように着脱可能なものではなく、エトの皮膚として定着している。
そのように宿主自身の身体の一部となっている背布は、背皮と呼ばれる。その演算回路はエトの演算回路、すなわち脳の一部と繋がっていて、常にエネルギーが循環し、一定の情報授受が行われている。しかし完全に一体化しているのかといえば、答えはノーだ。
通常エトは、Pが現在進行形の外部情報以外にはアクセスできないようにしている。過去の情報、つまりエトの記憶にアクセスする権限を与えていないし、背皮の着脱のような必要時以外、脳の接続範囲を最小限度にとどめている。
通常アンブリストは背皮をもう一つの脳として扱う。自分自身が刺青を入れ、育ててきた神経回路だから当然だ。
しかしエトの場合、刺青背皮は他人由来で、全面的に受け入れるには意識の変容を覚悟しなくてはならない。彼女はそれを良しとせず、同化を避けてPを自分自身とは違う独立した演算回路として扱っている。意識的な多重人格というわけだ。
そうすることによってPはエトの人格の構成要素にならないはずだし、背皮専門の担当医にもそういう説明を受けた。
人格への影響を別にしても、エトにとって背皮との思考会話など論外だ。具体的な言葉ではなくイメージによる意思伝達は、隠しておきたいものまで伝わる場合がある。そうなると、彼女自身の無意識が顕在意識に対して露わになる可能性があるのだ。つまりPから口頭で指摘されるわけで、端的に言って気分が悪い。
それに無意識は認識できないから良いのであって、自意識の土台としての様々な演算は、暗黙裡に進むからこそ、自意識は安定していられる。
確かにエトの背皮はただの演算装置に過ぎないし、演算結果を認識するのはエト自身の意識であって、背中の厄介者の意識ではない。そもそも背皮に意識などないはずだ。
しかしいかに精神鍛錬を欠かさずとも、自覚していない領域というものは存在する。そしてその領域は、常に大なり小なりしょうもないことを考えているものだ。それをさも人格があるような体で指摘されるのは愉快なことではない。
そうでなくともエトの置かれた状況は面白いものではない。半年ほど前に目覚めた彼女にはそれ以前の記憶がないのだ。母親の運転する自動車で事故に遭ったらしい。
そのとき頭を強く打ったらしく、その後遺症なのだろう、傷が癒えても母親の遺影を見てもまったく何も思い出せないし、感情もろくすっぽ動かないどころか、すべてに違和感しか覚えないのだ。彼女にできるのは、せいぜい自分に幻滅するくらいだった。
それがやっと紫乃宮エトという名前にも馴染んできたところだ。使い慣れた、あるいは呼ばれ慣れたという方が適切かもしれないが。
そんな状態では、無意識からどんなものが飛び出してくるか知れたものではないし、受け止めきれない場合も考えられる。
それに思考会話は単純に疲れる。
実は一度試して後悔したのだ。無意識領域における演算が桁違いに増えるからだそうだが、ただ速いだけの、浅慮きわまりない意思疏通でぐったりさせられていたらーーしかも二重の意味でーー割に合わない。
そんなエトの気も知らずPが呑気そうにつぶやく。
『それにしてもまあ、変わった双子よな。なんとも区別がつきにくい』
「そうかな。あんなにわかりやすい双子もないと思うけど」
ふん、とPは鼻息らしき音を立て、『それで、何か新しい手がかり、リベルを遺していそうなアンブリストは見つかったのか』
「さあ、特には。いつもと同じ、これからってところで引っ張り戻されちゃったからね。だいたい栞でも挟んでおければいいんだけど、どこから読み始めるとかも決めらんないからなあ。まあ、あの辺りは何回辿ってもいい感じだけど。若いっていいよね」
『おまえも若いではないか。それに、そんなことはどうでもよいのだ』
この演算装置は喜怒哀楽を演算しない。エトとしては腹の立つことが多く、たまにやりやすくもあるし、ほんの少しやりきれなくもある。
エトは大きく伸びをして背凭れを軋ませる。「思うんだけどさ、人生の後半に関しては彼、あんまり覗かれたくないんじゃないかなぁ。いままで一回も読めてないんだから。それにさっき読んだところって本人の回想が元になってるでしょ?リアルタイムじゃないよね。だってそのとき彼ってまだ刺青入れてなかったんだから。で、編集されてるから、彼も気楽に開示してるのかもしれない」
あ、そうかとエトは気づく。だからPの雰囲気が違うのかもしれない。彼の記憶の中のプルディエールはずいぶん柔らかい表情をしていた。それが彼の受けた印象だったのだろう。あるいは時間経過とともに良い思い出になったのか。とにかくこいつのような冷血な求道者という雰囲気は感じられない。それともPが言うように、エトの背皮に欠損があって再現イメージが不完全なのだろうか。
「『リベル/BTD』、ティスコ=ダルディはフィレンツェで、すぐにどうこうできないし、ブランペルラのリベルはないし。再チャレンジするしかないかもね」
『うーむ、仕方あるまいな』
まあ、引っ掛かってるキャラはいるけどね。代償を払ってまで調べる価値があるかどうか……と、エトは思案する。
「それじゃ、あたし、ディケルさん片付けるから。また後でね」
会話を切り上げたエトは、読んでいた本を台車に戻そうと両手で掴んだ。台車は金属製で、ブックトラックというよりはキッチンカートとといった頑丈そうなもので、三枚の鉄板が渡してある。
エトは腰ではなく膝の屈伸でカウンターから本を持ち上げた。分厚い大判ではあるものの、そこまで重いはずのないその皮装丁の本相手に、彼女は息を詰めている。
汗のせいか、大判本が彼女の手から台車の天板に滑り落ちた。
と、思いがけなく大きな音が室内に響き渡った。まるで小さな子どもがふざけて台車の上に飛び降りたかのようだ。
エトはとっさに周囲を見回したが、幸い閲覧室には誰もおらずーーそれはそうだ、もうすぐ授業が始まるーー見咎められることはなかった。
「相変わらずクソ重いんだから。これさえなけりゃイケメンなのに」
忌々しそうにつぶやくと、亜生から剥がし取った背皮の保存容器も台車に載せ、エトはカウンターの背後に聳える扉に、先ほどと同じように手を当てた。そして少し隙間を開けてから台車ごと書庫に押し込んだ。




