青
「ダーシアン・ド・エールフト、出ろ」
あたしは言った。もちろんディケルの声で。
「こうやってここを後にするとなると、長かったはずが、あっという間だったように感じるね」
「そうか。だったら背皮を移した後に、戻ってきてもいいんだぞ」
「なるほど。ここで彼女と最後の時を過ごすのも悪くないかもな。一日二食に昼寝付きだし」
「彼女が納得するかね」
「もちろん」ダーシアンは肩をすくめる。「するわけがない。彼女もアンブリストだぞ。狭いところで一生を終えるなど、考えただけで死んでしまいそうになるだろう。司書とは違うんだ」
そういうつもりがあるのかないのか、ダーシアンの物言いには、リブラリアンを蔑視する響きがある。
そう思ったのは、どうやらあたし/オレだけではないらしく、警備を担当している衛兵の一人が鋭い目付きでダーシアンを睨んでいる。
縁故採用もままあるビブリオテイカだから、親族がリブラリアンなのかもしれない。
ここフィレンツェのビブリオテイカは、イタリア中部地区の中心で、ヴェネチアよりも規模が大きい。よって製本に関わる部署も東の建物を一棟まるまる占有している。
表通りに面している一階には花屋が入っていたりするが、二階より上はすべてビブリオテイカだ。
窓に面している部屋はビブリオテイカである空間を囲む回廊のようなもので、実質大して意味を持たない部屋が連なっているだけだ。
ビブリオテイカに無関係な者が足を踏み入れたなら、なかなか趣のある貸し部屋か何かだと思うだろう。
建物の中心に位置するビブリオテイカの施設には、一階の洋品店から入る。店の奥が採寸室なのだが、そこに隠し扉があるのだ。
牢は北側の建物にあり、東館とは地下でつながっている。
あたしたちは粛々と刑場に向かう。
とはいっても、絞首刑に処するわけではない。ダーシアンの背皮を剥ぐのだ。
カンテラの灯りに導かれて階段を上がると、いつか見た覚えのある大きくて分厚い、そして少々奇妙な椅子が現れる。加えて鉄錆のような臭いも。椅子が吸い込んできた血の臭いだ。
「いつ見てもゾッとしないね」ダーシアンがわずかに嫌悪感を含むおどけた口調で言った。
「確かにな」
あたしの声は低く暗い。この椅子を見ると、ディケルはいまでも鮮明に思い出す。
プルディエールの押し殺した呻き声を。流れる血を。
アンブリストは痛みを感じないようにできるのだと、後から知った。あのときプルディエールは、あえて痛みに耐えていたのだ。それはブランペルラに対する贖罪の気持ちからか?しかし彼女はブランペルラに何をした?あるいはしなかった?
あたしは知らない。ディケルも知らない。
本当のところは何も。
「感傷に浸っているのか?ボクの代わりに」
ダーシアンの声にあたしは沈み込んでいた思考から浮かび上がった。
「いや、本当に納得したのかと思ってな」ディケルがあたしの考えていないことを言う。
「なんのことだ?」
「わかっているだろう、再統合の話だ。融合と分割で離れ離れになったおまえの恋人のことだ」
ダーシアンは顔をしかめ、「くどいな。そのことなら真実納得したよ。リベルのなかと現実世界は違うんだ。現実世界に生きている方は刻々と変化していく。リベルのなかとの差違が生まれ、それは時間とともに大きくなるばかり。再統合など不可能だ。仮にできたとしても、何かまずいことになるかもしれない」
「赤の他人が融合できるのにか」
「繰り返しが問題なんだよ」
ダーシアンの声には疲れが滲んでいる気がする。
「ボクはね、いまも不安でいっぱいだよ」
復元のことか……あたしとディケルは思った。
背皮を剥がす準備は、担当のリブラリアンたちによって整っていた。
ダーシアンは服を脱いで上半身を露わにすると辺りを見回した。「それで?ボクの背皮を受け継ぐ相手はどこなんだ」
「ああ、彼女か。心配するな、すぐに来るよ」ディケルが答える。
「彼女?女なのか」
「なにか問題でも?」
ダーシアンは渋い顔をするものの「いや、別に誰だっていいんだ。リブラリアンは変遷するものだしな。それに肝心なのはそこじゃないし」
ダーシアンは鋭い目つきであたしを見つめる。「彼女はどこだ?リベルが見当たらないぞ」
「それもすぐに運ばれてくる」ディケルは落ち着きを払って言う。
「ふん。それならいいけれどね」ダーシアンは鼻を鳴らして、自ら施術椅子に向かう。
ダーシアンは臆することなく椅子の背を抱くようにして座る。そして手足を拘束具の方に差し出した。それをリブラリアン二人が革のベルトで縛り上げる。
「どうやらお相手がお越しのようだぞ」ディケルが部屋の入り口を見て言う。
「なんだって?」ダーシアンは首を左右に回すが、ちょうど真後ろにある扉を視界の真ん中に収めることはできそうにない。
「すまない、遅れただろうか」
衛兵が開けた扉から入ってきた上背のある女が言った。両手で本を抱えている。
「おい、ちょっと待て」ダーシアンが訝しげにつぶやく。「覚えのある声だぞ。まさか……」
「そうだよ。彼女さ」ディケルはこみ上げる笑いで喉を震わせながら言った。「彼女は優秀だぞ。一人でリベルを運べる人材というのは、そういない」
「おい、ディケル・ソロウ」ダーシアンは怒りに震える声で言う。「あれから一年とちょっとだぞ。ズブの素人だったあいつが、しかもその年齢で、リブラリアンたる資格を得られるはずがないだろう。ボクの背皮をドブに捨てる気か⁈」
「まあ、落ち着けよ」ディケルは笑いを噛み殺して言う。「おまえの背皮を継承する資格があるのかないのか、その目で確かめてみろ」
リブラリアンの裾の長いリネンの一枚着を着た女騎士はゆっくりとダーシアンの前に回る。そしてその顔を彼のそれに近づけると、狼狽するのも気にせず額と両手を触れ合わせた。
「なっ」ダーシアンは一言発したが、そのまま黙り込んだ。
数瞬の後、彼女はダーシアンから身を引き、ディケルが声をかける。「どうだ、不足か?」
ダーシアンは舌打ちをすると、目の前で申し訳なさそうに身を縮めている女に言う。「本当にあのダメな騎士か?」
「素養はあった。腹違いとはいえ、プルディエールの優秀な弟子の姉だぞ」
「ふん……」ダーシアンは女を睨みつける。「おまえの名前は確か……」
「その名は捨てました。父に背いたとき、故郷と一緒に」女は寂しげに微笑し首を振り、続ける。「新しい名を、あなたからいただきたいのです」
ダーシアンは一瞬目を見開くと、徐々にその目を細め、「本気で言っているのか?」
女は真剣な顔で頷く。「厚かましいお願いだとは思いますが……」
ダーシアンはチラと斜め後ろにいるあたしの方に視線を寄越す。ディケルは黙ったままだ。
「はあ」ダーシアンはため息をつくと「まったく意味のわからない連中だよ……」
女は不安げに続く言葉を待っている。
ダーシアンは再度ため息をつき、「わかった。しかし拒否権はないぞ」
「ありがとうございます!」女は両手を合わせて破顔した。
三たび深く息をつくと、ダーシアンは女の顔を見据えた。「おまえの名はカエルラ。ただのカエルラだ。その瞳のように揺れ動く、空のように移り気な、そういう青だ」
女、カエルラは、驚いたように息を飲み、そして胸に右手を当てて顔を伏せた。「ありがたき幸せ」
「ラテン語の青、か」ディケルはつぶやいた。「移ろう青。いまは昔の話だけどね」