条件
通路の奥に鉄格子が見えた。房は一つではない。通り過ぎるとき横目で見るが、誰かがいる気配はない。いまこの半地下の牢獄に繋がれているのはあの男だけだ。
男は奥の壁に向かって設えられた粗末な木の机に覆い被さるように、これもまた使い古されたクッションも背凭れもない木椅子に腰掛けている。こちらに気付いた様子はない。しかしあたしのことははっきりと認識しているはず。
「決心はついたか?」ディケルの声で言う。
「肉が足りない」ぼそっとつぶやく声が思いの外よく聞こえる。「こんな食事じゃ、おまえたちのお望みのものが萎れてしまうだろうな」
「そうか。善処しよう」ディケルは答える。「それで?腹は決まったのか?」
返答はない。しかし彼はイスに座ったままぐるりと身体を回した。
「どうだ、なかなか便利だと思わないか?座面が回転するよう、改造した。部品がすべて木製だから耐久性に難があるけどね」
ダーシアンは粗末な麻の貫頭衣のようなものを着ている。囚人用の衣服なのだろうか。彼の顔は少々やつれているが、依然若さを保っている。髪の色は金髪。プルよりも少し色濃いようだ。瞳の色はわからない。そしてその顔には、プルの面影が確かにある。
ディケルが感心するのがわかる。あたしの時代には当たり前のものだけど、そう、この時代にはまだないってこと。
「その発想力は素晴らしいと思うよ。だからこそ残念で仕方ない。こんなところで埋もれてしまうのはね……」ディケルは言う。
それがダーシアン自身のことなのか、彼の背皮のことなのか、あたしにはわからない。自分の意識があるからなのか、いつもみたいにディケルの心情が伝わるってことがないのだ。
「復元の許可は下りたのか?」
「さあ、どう思う?」
ダーシアンは舌打ちする。「毎度同じことを……よく飽きないものだな。そういうのは望む答えを持っているヤツの台詞だぞ。それなのにおまえは……」
「これも罰さ」ディケルは肩を揺すり、「しかし今日は例外だ。喜べよ、おまえの希望は通った」
ダーシアンが唖然とした顔をする。「本当か?今度こそ本当なんだな」
あたしは、ディケルは頷く。「もちろん条件付きだが」
ダーシアンの顔つきが険しくなる。「背皮か。ボクの」
「そういうことだ」
ダーシアンは暫時思案げに顔を伏せてから、「呪いをかけるかもしれないぞ」
あたしはディケルとともに微笑して首を振る。「それはないな。アンブリストは自らそんなことはしない。まともに継承されるとわかっている場合はな」
ダーシアンは不満げに舌を鳴らす。
「ふう。わかった、いいだろう。申し出を受けよう」ダーシアンは言った。
「よし」ディケルはその響きで簡潔に喜びを表した。あたしはもう一つ状況の理解が追いついていない。
「背皮の移植先は、もちろん決まっているんだよな?」ダーシアンが言った。
「あたりまえだろう?」
「誰なんだ」ダーシアンは眉を寄せて訊く。
「それは当日のお楽しみだ」
「ふん。まあいい。だが、納得いかなければ移譲はナシだ」
「その決定権は、おまえにはない。いやなら今、断れ」
チッと忌々しげにダーシアンは舌打ちする。「それで、あいつの背皮については?」
「再リベル化はないからな……」ディケルの口調は心なしか暗い。
いや、実際に気分が晴れないのだろう。アンブリストは死に慣れているようで、その実逆だ。
「背皮の移譲先を決めるのは、その持ち主と決まっている。そこは変わらないさ。彼女がおまえに譲ると言うならそうなるだろう」
「ほう、そうか」ダーシアンは悪だくみするように目を細める。
「ただそうなると、おまえは狙われ続けるだろうがね」ディケルはそっけなく言う。
「面倒くさいことだ」
ディケルは小さく鼻を鳴らし、息を吐く。「移譲の儀式は二日後だ。せいぜい首を洗って待ってな」
「信用していいのか怪しくなる発言だな」
あたしは横目で彼を見る。その表情から、彼の方こそ何かを企んでいるのではないか、その兆しを読み取ろうとする。
しかし彼の目はもうこちらを向いてはいない。彼は遠く、壁の向こうを見ている。もしくは己の裡を。
牢の通路を出ると、ディケルとの結合が緩んだ気がした。
すると周囲が動きを止め、あたしの意識からずれていく。代わりに認識はしていても、そこに注意を払っていなかったものが存在感を増していく。
あたしは終始黙って横に立っていたプルに気づき、訊いた。
『あいつ、信じていいと思う?』
『どうであろ』プルは興味なさそうに言う。『いずれにせよ、もう過ぎた出来事だ。事の結末を知るために、ここに来たわけではないぞ』
『そうだけど』
直接手を下したのか知らないけど、あのビブリオテイカ分室で衛兵やリブラリアンが殺されたのは、ダーシアンに原因がある。それが背皮を失うだけで望みを叶えるなんてことが許されるのだろうか。
あたしはディケルの叔父であるレッティアーノの視点で見ていただけだから、意見するつもりなんてないんだけど。
あたしが悶々としていると、プルディエールが肘であたしの太ももを小突いた。
『おい、そのときが来たようだぞ』
『え?』
ハッとして目の前に注意を向けると、衛兵が牢の鍵をガチャガチャと鳴らしていた。




