牢獄
粘度の高い海に、ゆっくりと沈んでいく。
いつもなら、他人の主観がいきなりここにあるのだが、いまエトは連続した己を自覚している。リベル・ディケルにおいて、ディケルになっていない。
いつもと違う感覚にエトは戸惑いを隠せない。
だって、あたしの目の前にディケルがいるんだもの。それが当然って顔で。
「やあ、プル。久しぶり、なのかな?」ディケルは白いものの混ざったあごひげをさする。
「ああ、そこのところはわたしにもよくわからないが、おそらく相当の年月が過ぎていると思うぞ」プルディエールは肩を揺すってみせる。「まあ、前回の記憶など、わたしにはないがな」
「なるほど。おまえ、いつの時代の分岐なんだろうな」いつのまにか若さを取り戻したディケルは微苦笑し、「で、今回はどんな用なんだ?」
「もうわかっておろうに」プルディエールは短く息を吐くと「小娘に解呪を経験させてやってくれ」
「ふむ」ディケルは片眉を上げ、エトを見る。「ここにこうしているということは、それなりの心得があると思っていいんだな」
「え、いや、どうなんでしょう」エトはモジモジと目を逸らす。
「はっは、いや、わかっているさお嬢さん。あんたは何度も本を読んでいるからね」
「え?」エトは首をかしげるが、すぐに意味を理解し、顔が火照る。
「リベルを読むものは自らもまた読まれている。そういうものだろう」壮年となったディケルは、しかし悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
「ディケルよ。おまえは毎回目を覚ましておったのか?時間を浪費するでない」プルディエールが苦言を呈する。
「それほどの時間でもない。それにたまには今の時代というものをを見ておかなければな。おかげで驚きの連続だったぞ。礼を言う」ディケルはそう言ってエトに笑いかける。
「そんな、こちらこそありがとうございます、というかなんというか」何となく気まずくてエトは語尾を濁す。
「さて、挨拶はこれくらいにして本題に入ろうぞ。それこそ時間を無駄にはできぬ」プルディエールが咳払いして言う。
「そういえばあんた」そこでエトは目の前にプルディエールが立っていることに改めて気づいた。「ここじゃ、立ち位置は関係ないってこと?」
「そうだが、そんなことは後でよかろう。ディケルよ、頼んだ」
ディケルは二人のやりとりに微笑し、「わかった。ではおまえを復元した刻に行こう」
「バルディリ伯の図書館から盗み出された、あのリベルですか」エトは急に不安を感じた。「ラグランティーヌさんの」
「そう」ディケルは頷く。「ダーシアンとあのリベル、リベル・ラグランティーヌと呼ばれていたあの中のものとの意見が一致したのでね……」
ディケルは目を伏せるが、すぐにエトを見据えて言う。「とにかく読めばわかることだ。さあ、わたしの手を取れ」
エトは差し出されたディケルの大きな手を見、プルディエールを見た。
プルディエールは苦笑し、仕方がないなといったふうに短く息をつくと小さな手を差し出した。「いいかな、ディッキ」
「まあ、いいさ」ディケルは目を細める。
今度は迷いなくエトはディケルの手に自分の手を重ね、そこに白く細い指が加わった。
「さて手始めに、彼に会いにいくとしよう」ディケルが言った。
気がつくとあたしは暗い通路にいた。石の壁に触れると意外なほどサラリとしている。目線の先には軽甲冑を着けた衛士と思しき二人が鉄格子を挟んで立っている。その彼らがあたしを見て姿勢を正す。
「ごくろうさま。問題ない?」そう言うあたしの声は男の人のものだ。
「はい、館長」一人が答える。
「館長じゃないでしょ。不在の間、代理を任されているだけで」オレはため息とともに言う。
「だからこそ不在の間だけ館長ってことで。な、館長ぉ」一回り以上年長の男は人懐っこい笑顔を浮かべる。
「いや、ちょっとバカにしてるよね、ガンヴィさん」
「いやいや、喜んでるんですよガンヴィさんは。あの坊やが立派になったってよく言ってますよ」もう一人の衛士が笑いながら言う。
「まあ、そういうことにしときますか」
オレは苦笑するが、初めて見る顔だと気づく。まだ若い。
「キミは最近配属になったんだよね。前はどこに?」
「私ですか?出身はナポリです」
そう言われると南部の雰囲気があるように見える。
「そうですか。それはまた遠くから」
衛兵はアンブリストやリブラリアンを目指している者の関係者が審査を受けて従事している。またはアンブリストやリブラリアンを目指していた者が、その道を諦めてなる場合もままある。
この男はどちらだろうかと考えたが、訊くのはやめる。ちなみにガンヴィの場合、娘がリブラリアンだ。
あたしの声は男性で、あたしは自分のことをオレと自覚している。あたしなんだけどあたしじゃない。
こんなことは初めてだ。
あたしの意識がはっきりしたまま、あたしはディケルさんの主観を自分の主観にしている。
『そうか、おまえは初めてか』背後から声がする。プルディエールだ。
『そうだよ。これってどういうこと?』あたしは意識で答える。
『リベルの主体であるディケルとの距離感の違いだな』プルディエールは言う。『ディケルがこの方がいいと判断したのだろう。今回に限っては、あやつも起きているようだしな』
『あやつって、ディケルさん?』あたしは少なからず驚く。起きていたらリベルの時間も進んでしまう。死に向かって。「そんなことしなくても」
『あやつの判断だ。いいか?アンブリストは死にたくないからリベルになとわけではないのだよ』
継承すべきことを継承すべき相手に継承するためにリベルは遺される。
あたしは天井の端の隙間から漏れるわずかな明かりを頼りに狭い通路を進む。
その先の目的が自ずと頭に浮かぶ。あたしは会いに来た。プルディエールの息子、ダーシアンに。