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ビブリオテイカ/零葉の錬金術師  作者: 浦早那岐
ディケル・ソロウ
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神獣狩りの夜

 死体の腕を持ってこい。

 苦しげな息遣いの隙間に絞り出された言葉。

 その意味を測りかねたまま、オレは手首から先が失せた女の左手から目を逸らせずにいる。

 血は、ようやく止まりかけていた。


 栗や樫などの高木に挟まれた尾根の路から滑り落ち、笹の群生と下生えの低木に覆われた斜面に二人して身を隠した。女の止血を手伝った後、向かい合って息を潜めている。

 初夏のこの時期、落葉性の栗も常緑樹の樫も同じように葉を生い茂らせて月光を遮っている。上方で飛び交っていた怒声も遠去かり、静寂が戻りつつあった。

「もう一度言う……腕だ、少年。人間の腕が必要なのだ……ありふれたものだろう?実際この場にだって三つもあるウゥ……」

 女は低く呻いた。ゆっくりと呼吸し、強張った肩の力を抜くと、老婆のしゃがれた声を吐きこぼす。「……それをたった一つ、しかも死体のものでもよい……腐ってさえいなければな……」

 手を失くしたから代わりの手が必要だと言っているのだろうか。目には目を、歯には歯を、手には手を。これは正しい方策だろうか。少なくともこの女はそう思っているのだろうが、他人の腕を繋いだところで自分のものになるわけがない。

 第一この辺りに死体が転がっているはずがないし、目の前に左手首から先を切り落とされた老婆がいることさえ、未だ信じられない気持ちなのだ。


 後悔先に立たずというが、神獣を狩ると聞いたとき、その言葉の意味をもっと問い質しておくべきだった。まのあたりにすればわかると言われて、よくわからないまま興味本位でついてくるべきではなかったのだ。

 神獣が普通の動物ではないことくらい、父の口調から察せられた。それに夜行性というのはいいとして、狩りに銃や罠を使わないという。

 暗い山中では仲間に当たる危険から、銃を使わないのは当然といえば当然だ。しかし罠なしでどうやって捕らえようというのだろう。

 父の答えはこうだ。「そもそも神獣相手に銃や罠は無意味だ。素手以外はすべてな」

「でも、銃とか罠で捕まえられないものをどうやったら素手で捕まえられるっていうんだよ」

 緊張もあって苛立つオレの背中を、叔父のレッティアーノが軽く叩いた。「やってみればわかるさ。百聞は一見にしかずだ」

 それでそれ以上訊くのをやめた。レッティおじさんの言葉は素直に聞く気になるから不思議だ。出張のたびに都会の土産をくれ、最新の話を請うままに幾らでも語り聞かせてくれるからかもしれない。つまり恩を感じているわけだ。

「でも父さん、どんな外見かくらい知ってなきゃ困るんじゃない」

「口では説明しづらい」

 父の方が困ったように眉を寄せた。「そうだな……強いて言うなら影だ。暗がりの中でもそれとわかるほど濃密な闇だよ」

「それって生き物?」

「とにかく出くわして、そして触れられればわかる」

 大事な話のときいつもするように父はオレの肩に手をかけ、「いいか、狩りというのは語弊があるかもしれん。殺したり、捕まえたりするわけじゃない。獣といっても神だからな。おこぼれに与るだけだ」

 神だからという言葉が強く響いた。人智を超えた何かなのだ。鼓動が高鳴り、身体に震えが走った。

 年を経るごとに、この村の生活は旧いしきたりの中で汲々としていると感じる気持ちが強くなっていった。だからといって村を飛び出してやっていける自信はなかった。

 都市の伝手を紹介してくれるよう、数年前に一度だけ叔父に頼んだことがあるが、あえなく断られた。

「村を出るべきなら、オレとは無関係に出ていくことになる。まあ、いずれにせよまだ早い。焦らず待てよ」

「それって決まった未来、運命があるってこと?」

「運命というのとは違うな……いうなりゃ、割合の問題だ」

「わりあい?よくわからないよ」

「気にするな。わかるべきときにわかるようになるさ」

 いまはもう村を出るつもりなどないけれど、そのときは上手く煙に巻かれたと思った。


 沈んだ陽が稜線を縁取っているうちに山へと入った。

 尾根近くに出る頃には残照は月明かりへと変わっていた。

 尾根沿いの道をしばらく行くと、離れて先を歩いていたレッティおじさんが不意に立ち止まり身を屈めた。隊列も即座に反応し、その場で姿勢を低くして息を潜めた。

 そっと手招きする叔父に向かって皆そろそろと進んでいった。叔父が父に囁いた。近づいてくると言ったようだった。

 何の前触れもなかった。突然視野に空白が生まれた。いや、白ではなく黒。視界にインクを滲ませたような輪郭のはっきりしない染み。

 山道に飛び出した黒い染みは、寸時静止した。それに合わせて時間も止まったかのようだった。おそらく瞬き程度の間だったのだろうが、息苦しさを覚えるほど長く感じた。

「追え!」おもむろに叔父が叫んだ。時間が加速度を伴って動き出し、皆の身体が宙に開いた深淵に向かって弾けた。

 大人たちは一目散に影へと突進するのではなく、取り囲むように散開した。

 影も敏捷に動いたが、一瞬の遅れで形勢が大きく不利になった。

 それに俊敏とはいえ、影の動きはウサギほど速いものではなく、大人たちに行手を遮られ、右往左往している。その動きは鬼ごっこで捕まる寸前の子供のように思えた。

 不意に懐かしい光景が頭をよぎった。

 それもほんの一瞬のこと。出遅れたオレの視界を大人たちの身体が塞いだ。

 あの黒い影が神獣なのか?確かに見たと思うのだが、ますますわからなくなった。

 そうか、とそこで思い出した。触れなければならないのだ。

 意気込んで一歩踏み出した瞬間、大人たちの壁の隙間から黒いものがぬるりと抜け出してきた。

 神獣だ。

 考えるより先に右手が前に伸びた。影はするりとかいくぐる。

「行ったぞ!」遠くに叔父の声を聞いた気がした。腕を伸ばした勢いそのままに回転しながら、昔した鬼ごっこのように、当てずっぽうに左手を後方に突き出す……

 と同時に痺れが走った。左手の指先から舌の根、そして脳天へと。首筋を変に捻ったときのような痛み。

 もしや指先が神獣にかすったのだろうか。

 後方に反転して山道を逃げる神獣を追撃する。いままさに自分が先頭にいるという高揚感。

 しかしそれは一瞬で冷めた。

 目の前を駆けるのは影でも獣でもなかった。黒っぽい外套の袖から突き出た細い腕と脚。一方の腕は不自然に短い。

 状況の整理がつかないまま追いかけていると、頬に何かが降りかかった。反射的に拭ったそれは、ぬるりとして錆び臭かった。

 紛れもなく血だ。

 気づいた途端、脚から力が抜け落ちそうになった。

 これは現実なのか。この人間狩りが。背中に悪寒が走り、五感が内側へと逃避し、現実が目覚める直前の薄っぺらな夢のように感じ始める。と、そのとき

「はあっ」

 痛みに呻くような微かな喘ぎが耳をかすめた。老婆のようでも子供のようでもあった。

 その切実な声がオレの頭の霧を払った。

 足の痺れを振り払い、一気に距離を詰めたオレは、速度を緩めることなく、黒い外套にくるまれた小さな身体を抱え上げ、背中から藪の中へと飛び込んだ。

 迫ってきているはずの追手を振り切ろうと、オレは斜面を斜めに滑り落ちていった。この人間を守る。その一念だけで動いていた。


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