6.やりたい事をやること
レティシアは貴重種についての資料を読み漁ると、図書館に併設されているカフェで食事をとり、来週提出のレポートの参考となる本をいくつか借りた。
いつもなら夜遅くまで図書館に入り浸っているところだが、アルが心配で日が暮れる前には寮の自室に帰宅した。
部屋に戻るとアルはすやすやとベッドで眠っていた。
食料を保管するための冷蔵機能のついた倉庫の中を確認するとごっそりと減っていた。昼ごはんは一人で食べたようだ。
レティシアは借りてきた本の入った重い鞄を降ろしてアルに近づいた。魔力回路は治癒師の治療以外では睡眠を取ることでしか回復しない。
仮にレティシアに出会うまで相性の良い治癒師の治療を受けることができなかったとしたら、アルは今までどれくらいの時間を眠って過ごしてきたのだろうか。
アルは友達とおしゃべりしたり、遊んだりする楽しい時間も、生き伸びるために眠って過ごしてきたのだろうか。
生まれた瞬間から今に至るまで、自分の死を想像しながら眠るなんて、どれだけ苦痛なことだろう。
胸がぎゅっと締め付けられてレティシアはアルに手を伸ばした。
魔力回路を浄化しようとした、その次の瞬間。
ーーパシッ
「いたっ…」
握り潰されるのではないかと思うほ力強く腕を捕まれ、アルの怯えた深い青の瞳と目が合った。
「…おまえか」
アルは寝ぼけた顔で呟くとホッとした様子で腕を解放した。
昨日も警戒したアルに腕を掴まれ、体を押さえつけられた。レティシアは何をするのだと怒ったが、今考えれば常に命を狙われているアルにとって、見ず知らずの人間が自分のすぐ隣にいる事ほど恐ろしい事はない。
怒らないレティシアにアルは怪訝そうな顔をした。
「魔力回路の浄化をしようと思って」
レティシアが告げると、アルは素直に目を瞑って再び横になった。
胸にそっと手を置いて浄化を始めるとアルはすぐに欠伸をして気持ち良さそうな顔をした。
「どこに行ってた」
「図書館よ」
「休日にか」
「休日でも図書館は朝から開いているわ。今日は貴方の魔力について調べたの」
「へえ。何かわかったのか」
アルはまるで自分について書かれた資料など無いと言わんばかりの口調で尋ねる。
レティシアは朝部屋を出た時のむっとした気持ちが蘇ってきた。
「ええ。いろんなことがわかったわ。貴方の魔力についても、どう治療したらいいかもね」
アルは興味深そうな視線をレティシアに向けた。
「それで」
「あら、教えるとは言ってないわ」
仕返しとばかりに答えるとアベルは鼻で笑った。
アルに教えないと言われた時、レティシアはとても腹が立ったのに、アルは逆に楽しそうでレティシアはますます、むうと顔を顰めた。
「休日はよく図書館に良く行くのか」
「まあそれなりに」
「熱心だな」
「常に勉強してるわけじゃないわ。図書館で小説や今時のロマンス本を読んでる日だってあるし」
アルは積極的にレティシアに突っかかってくる。
レティシアが謙遜して答えるとアルは揶揄うように告げた。
「実験レポートはなかなかの出来だった」
突然何のことかと思い、はっとする。
昨日返却されたレポートを無造作に机の上に置いていた。
「見たの!」
見られて困るものでは無いが少し恥ずかしい。
「かなり読み応えがあった」
「それはどうも…」
今度は少し嬉しそうに頬を染めて尻すぼみに告げるとアルは穏やかな顔をして尋ねた。
「勉強が好きなのか」
それは揶揄うようなものではなく、純粋な問いかけだった。
一瞬、頭の中をいろんなものが駆け巡った。
教授の興味深い授業、素晴らしい知恵の詰まった教科書、いろんな世界を見せてくれる資料集や参考書、過去の偉人と同じ体験ができる魔導実験。学院での様々な学びを通してここまで成長してきた自分。
急に鼻がツンと痛くなる。
「…それなりに、好きよ。目標に向かって知識を身につけるのは、とてもやり甲斐があって楽しいから」
「そうか」
そんなの嘘。
もっと、好き。勉強が、学ぶことが。大好き。
治癒師になるのが憧れだったから、治癒師になるためのことは何でも楽しかった。
「でも…」
アルの瞳が僅かに見開かれる。
「でも、もうなぜ勉強するか、学ぶのかわかなくなっちゃった」
レティシアは宮廷治癒師にはなれない。伯爵家に嫁ぐことは決定事項だ。もうどんなに勉強しても宮廷治癒師になれないのだと思うと無性に悲しくて瞳から雫が溢れた。
「レティシア…?」
「あ、あれ。どうしたんだろ。急に」
アルの深い青い瞳がレティシアの方をじっと見ていた。全てを見透かされてしまうような気がしてレティシアは慌てて目を逸らした。
「目にゴミが入ったみたい」
レティシアは目元を抑えて立ち上がった。
洗面台に駆け込んで蛇口を捻って水を出す。両手ですくって顔面にかけた。バシャバシャと水を浴びて壁にかけてあった布地で顔を拭うと、アルの方を見ないようにして告げる。
「ちょうど良い時間だから夕飯食べてくるね。帰ったらまた続きをするから、アルもご飯食べてて」
声が上擦らないように気をつけながら伝えるとレティシアはアルの返事を聞かずに部屋の鍵を掴んで外に出た。鍵穴に差し込み施錠する。
部屋の扉を背にレティシアはズルズルとしゃがみ込んだ。
「本当に、どうしたんだろう。見ず知らずの人の前で泣くなんて」
気持ちを落ち着けるためにその場で大きく深呼吸をした。
泣くことなんて滅多になかった。
実家では下の子を世話するお姉ちゃん、学校では学科一の優等生。人前で泣くなんて許されなかった。
我慢強い性格だと思っていたのに気持ちが緩んでしまった。
自分らしくないと言い聞かせて溢れた涙を拭う。
夕食を食べて忘れようと、レティシアは立ち上がり、食堂へ向かった。
土曜から日曜にかけては実家に帰る学生も多い。
クロエもその一人で彼女の姿は食堂にはなかった。
レティシアの実家がある辺境伯領は国境付近に位置する。魔導仕掛けの馬車を使っても数日かかるため、レティシアは長期休暇にしか帰省しない。
たまたまよく話す友人が誰もおらず、レティシアは一人でぼんやりと夕食を取った。
『なぜ勉強するか、なぜ学ぶのかわからなくなってしまった』
先程アルに向かってぽろりと溢れた言葉を改めて思い出した。
本当にその通りだった。
自分は今、なぜ図書館から本を借りてまでしてレポートを書き、必死に学ぼうとしているのだろうか。
学院卒業後には伯爵家に嫁ぐことが決まっている。
伯爵家の次期当主、レティシアの夫となる予定の人間は炎の精霊が好む魔力を操る魔導士だ。
単体魔力の魔力回路の浄化はそう難しいことではないし、彼の専属になるとしたら魔力回路の浄化を行うのも週に一度か多くて二度程、一回の施術は数十分程度。
一人の人間の魔力回路を決まった要領で浄化するのであれば特別な知識も技術もさほどいらないし、それよりも妻として伯爵家を収める仕事の方が増えるだろう。それが嫌と言うわけではないが、学院で得た知識や経験は一切必要ない。
レティシアは今、なぜ学んでいるのだろう。この時間に何の価値があるのだろう。
考えれば考えるほどわからなくなった。
部屋に戻るとアルはベッドの上で本を読んでいた。
部屋の棚に置いてある本を引っ張り出したようだ。レティシアは玄関に置いてあったカバンを机まで持っていくとアルに背を向けたまま尋ねた。
「ご飯は食べた?」
「ああ」
「口に合う?苦手なものとかがあったら…」
なんとなく気まずくて、恐る恐る振り返るとアルは本から目を上げてレティシアの方をじっと眺めていた。
アルの深い青の瞳に捕らわれレティシアはその場に固まる。
「なに?」
「風呂かりる」
「え、ええ。どうぞ」
何を言われるかと一瞬身構えたが、取り止めのない内容でホッとする。レティシアはアルをシャワー室に案内した。
「ええと、体を拭くものはここに入っていて、…替えの服が無いわね」
備品の置き場やシャワー室の使い方を一通り説明するが、服などをどうするかレティシアは頭を悩ませる。
「適当に自分で洗って乾かす」
「洗って乾かすって…」
「忘れたか、俺も第一循環の貴重種だ」
第一循環は炎と水と草の精霊が好む魔力の循環だ。水や炎の魔力持ちなら服を洗って乾かすことくらい朝飯前だろう。
「わかったわ。でも替えがないと不便よね…服は明日街で調達するとして、今日は悪いけどそうしてもらえると助かるんだけど」
「同じだ」
「はい…?」
そう告げるとアルが急に屈んで、レティシアの顔を覗き込んだ。
急に縮まった距離に心臓が飛び跳ねた。
恐ろしく整った顔。思わず見惚れていると頭に手をポンと乗せられた。
「目標がないとだめか」
何の話か分からずレティシアは困惑する。
「…アル?」
「理由がないといけないのか」
「なにが…」
すぐにレティシア自身の言葉だと気づいた。
アルの青い目が真っ直ぐにレティシアの事を見ていた。怒っているような哀れんでいるような、でもどこか心配そうな色を含んだ目。
「お前が今みたいにお人好しするのと同じだ。自分のやりたい事に理由を求めるな。勉強が好きなら思う存分やれば良い。学びたいなら学べばいい。自分がやりたいと思ったなら、それがやる理由だ」
そう告げるとアルはシャワールームに入っていった。
レティシアはその場に呆然と立ち尽くし、アルの言葉を何度も反芻していた。
「やりたいと思ったなら、それがやる理由…」
ぽろりと瞳から涙が溢れた。
そんなことを言われたのは初めてだった。
家族には王都に行ってまで治癒学を学ぶ必要はない、自宅で家庭教師をつけてやれると言われ、学院では首席を取れば女が宮廷治癒師を目指すなんて変わっていると言われた。
学びたいというレティシアの意思を純粋に受け止め、尊重してくれる人など誰もいなかった。
たった一言、やりたいならばやればいいと、言われただけなのに心の中のモヤモヤは全て消え去っていた。
自分の事を認めてくれる人が一人でもいる、それだけで世界は違って見えた。
「まだ、ここにいたい」
レティシアは部屋でひとり涙を流して小さな声で呟いた。
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