12.ヘーゼルの瞳
心地よい温もり。安心する匂い。
嫌なことが全て吹き飛んでしまうくらい心地よくて、レティシアは逃さないとばかりに、ぎゅっと掴んで顔を擦り寄せた。
昨日はソファの上でアルの魔力回路の浄化をして、それ以降の記憶がない。どうして横になっているのだろう。
嫌な予感がして重たい瞼をゆっくりと開くとはだけたシャツと立派な胸板が見え、見上げると美しい青年の寝顔があった。レティシアはがばりと体を起こした。
自身の衣服を確かめて時計で時刻を確認してようやく胸を撫で下ろした。
途中で寝落ちしてしまい、アルがソファからベッドへ移動させてくれたようだ。なぜ一緒に寝ているのかは不明だが、悪いことをした。
アルの綺麗な寝顔を見つめながら額を優しく撫でて魔力回路の状態を確認する。
かなり回復はしているものの、そもそものアルの魔力回路が傷だらけなため完治まではもう少し時間がかかりそうだった。
まだ辛い思いをさせるのかと思うと心苦しくなって額から頬、顎にかけてのラインを優しくなぞった時、レティシアの手が止まった。
魔力回路の浄化は、皮膚を触れ合わせた面積の広さと、込めた魔力量の掛け合わせで効果が変わると言われているが、それとは別の方法もある。
体外から触れて浄化を行うのではなく、体内から体液を伝って浄化を行うのだ。
効果は体外から行う方法よりも高いと言われているが、体液を媒介して直接浄化を行うため魔力型の相性が少しでも悪いと魔力回路の損傷につながるためリスクの高い方法だった。
アルとは魔力型の相性がかなり良い。体液を使った浄化も問題なく受け入れてくれる気がした。その方法の方がすぐ元気になるだろうかと考え、親指でアルの唇をなぞる。
よく使われる体液は血、精液、唾液の3種類だが、口づけによって唾液を媒介にする方法が一番手っ取り早い。
アルは寝てる。今なら何をしてもきっとばれない。
唇をじっと見つめて、レティシアは手を離した。
「…だめよね」
治療の代償に性的な行為を強要すること、それは治癒師として絶対に侵してはいけない禁忌だ。
レティシアは少しでも気持ちが揺らいだことを恥じてベッドから降りると、壁にかけてあった制服を手に取ってシャワールームへ向かった。
「残念」
アルは眠そうな目を開いてぼそりと呟いた。
制服に着替えたレティシアはシャワールームから出ると課題や教科書を詰めてカバンの準備をした。アルはまだベッドの上でゴロゴロしている。
朝食を適当に食べるように伝えると、レティシアも朝食を食べるために食堂へと向かった。
「おはよう。クロエ」
食堂に入るとちょうど席についたばかりのクロエを見つけて声をかけた。クロエに手招きされてレティシアはクロエの向かいの席に座った。
「おはよう、レティ。良い週末だったかしら」
席につくなり尋ねられ、レティシアはアルやロベルトのことを思い浮かべながら曖昧に答える。
「ええ、充実した週末だったわ。クロエは?」
よくぞ聞いてくれたと言わんばかりにクロエは話し始める。
「もちろん最高の週末を過ごしたわ。準備は万端よ」
「準備?」
レティシアが首を傾げるとクロエは、ふふふと怪しげに微笑んだ。
「レティシア今週から実習が始まるのよ。いい男を獲得するための大チャンス。パックにボディクリームに十分な睡眠を取って香油もつけた私に死角はないわ」
レティシアはハッとする。今週からは実習だ。
アルのことばかり考えていたせいですっかり頭から抜けていた。
実習着や要点が書かれた実践資料集を持って行かなくては、とカバンに追加で詰めるものを考えながらレティシアはクロエに告げた。
「生徒指導のミセス・マクミランに捕まらないようにね」
「ご忠告ありがとう。そのへんは上手くやるわ」
闘志を燃やしているクロエの隣でレティシアは静かにパンを齧った。
朝食を食べ終えたレティシアとクロエが登院すると教室にはすでに名簿と実習場所の一覧が張り出されていた。成績順でグループは区切られており、レティシアとクロエは一番上のグループだった。
実習場所は仮説治療所として使われることの多い講堂で、向かうとすでに数名の生徒が集まっていた。定刻になるとレティシア達のグループの監督をする学年主任のクラウザー先生がやってきて改めて実習の要項を話し始めた。
実習の期間は1週間。
実習内容は最近行われた西部大規模討伐で怪我を負った魔導士の治療だった。
治療内容は物理的な怪我の治癒と魔力回路の浄化で、とくに魔力回路は魔導士の心臓とも言われる大切な器官のため、注意して浄化するようにと念を押された。
実習は怪我人を受け入れるためのブース作りから始まった。物理的な怪我の治癒は誰でもできるが、魔力回路の浄化には魔力の相性がある。受け入れる対象者が変わるため、間違わないように魔力型ごとに治療を施すブースを分けるのだ。
第一循環の炎、水、草であれば、炎の魔導士には水の治癒師、水の魔導士には草性の治癒師、草の魔導士には炎性の治癒師、と言うように打ち消し合う相性の治癒師でなければ浄化ができない。
第二循環の風、雷、土も同じで、風の魔導士ならば雷の治癒師、雷の魔導士ならば土の治癒師、土の魔導士ならば風の治癒師が必要だ。
貴重種の場合は、炎水の魔導師には水草の治癒師、と言うように魔力型の補完が取れてなければ浄化は行えない。
使える魔力の数が増えれば増えるほど魔力型の合致する治癒師も減り、治療が困難になる傾向がある。
混合型ならまだしも特異型となると魔導士は対応できる治癒師はほとんどおらず、相性のいい治癒師を見つける前に早逝する事が多い。
アルの顔が頭に浮かんだ。
アルはレティシアの治療が終わった後は魔力回路の浄化はどうするのだろう。レティシアが完治させても定期的な浄化は必ず必要になってくる。
相性の悪い治癒師から浄化を受けると強烈な不快感に襲われたり、最悪魔力回路を損傷して死に至ると言われている。
逆に浄化を拒み、魔力回路を放置をし続けてもそのうち腐敗したりなどして死に至る。
レティシアは今後もアルの浄化をしたいと思っていたが、どの治癒師の浄化を受けるかは魔導士に選ぶ権利がある。
アルはレティシアを望んでくれるだろうか。
「レティ大丈夫?やっぱり怖い?流石に第一循環の全ての魔力の患者を受け入れるなんて」
考え込んでいると隣のブースから顔を出したクロエに声をかけられた。
「怖くはないけど、少し緊張してるかも」
「そうよね、魔力回路の浄化はやっぱり危険だし。土の魔導士だけでも私は緊張するわ」
クロエは第二循環の風の精霊が好む魔力を持つため、土の魔導師の治療を担当する。
レティシアは第一循環の全ての魔力を持つため、炎、水、草の単体の魔力型の魔道士と、炎水、水草、草炎などの混合型の魔導士も担当することになっていた。
魔導士の魔力の種類によって魔力回路の浄化方法が細かく変わるため気をつけなくてはいけない。
「魔導士の命を預かり、自分の命をかけて治療している事を忘れずに仕事にあたるわ」
「私もそうする」
2人は互いに気を引き締めるとブース作りに戻った。
簡易ベッドやテーブルを組み立てたり、医療用の物質を並べたりと準備することが多く、午前中いっぱいはブース作りをしていた。
ようやくブース作りが終わる頃には昼になっており、食堂で昼食をとると午後からようやく怪我した魔導士を受け入れての実習が始まった。
ぞろぞろとやってきた魔導士は深い切り傷やひどい打撲、火傷など様々な怪我を負っており、中にはかなり痛々しい傷を負った人もいた。
覚悟はしていたが実際に間近で見ると胸が痛くなる。レティシアは患者に負担がかからないように一人一人に丁寧に接しながら治療を進めていった。
物理的な傷を治した後、魔力回路の浄化に取り掛かる。
魔力回路の浄化は神経を使う作業だが、アルの治療をしていたせいか、手際よく進めることができた。
施術には1人あたり大体30分程度かかった。
その間、何も話さない寡黙な魔道士もいれば始めから終わりまでひたすら喋り続ける魔導士もいた。
「へえ、そうなんですね」
「俺は前線に出ても死ぬだけだからって後方支援。前線に出てるやつは多くてでっかいヴォルフとかラドビッドをばっさばっさと倒してくの」
「さすがですね。でも後方支援も重要な仕事ですよ。後方で支えてくれる人がいるから前線の先輩方も安心して戦えるんじゃないでしょうか」
「そうかな」
レティシアが告げると、グレージュの髪にヘーゼルの瞳の若い魔導士は嬉しそうに微笑んだ。
「そうですよ。治癒師も後方支援ですが、私は重要な仕事だと思っています」
「確かに、治癒師がいないと魔導士は動けなくなるからね。立派な仕事だ」
世間話をしているうちに膝下の広範囲の内出血を治療し終え、レティシアは声をかけた。
「では、次は魔力回路の浄化に移りますね。魔力属性を教えていただけますか」
「ありがとう、かなり体の調子が良くなった。優秀だね。俺の魔力型は水だよ」
「わかりました。楽にしていてください」
レティシアは青年の物理的な怪我を治すと今度は青年をベッドに座らせた。草の精霊に呼びかけて魔力回路の浄化を始める。
「後方支援も大切だとは思うんだけどさ、中には俺のような下っ端の手伝いも、中堅の補助も、ベテランの助言さえも必要としない本物の天才っていうのもいて、そういうやつ見ると俺って必要?って少し凹む」
青年はレティシアの治療を気持ち良さそうな顔で受けながら告げた。
「いるんですか、そんな神様みたいな人」
「それがいるんだ。俺より一個上の先輩なんだけど、恐ろしい目つきで、そこら中の魔獣を一瞬で片付けちゃうの。魔獣よりも凶暴で、凶悪な人」
疑うように尋ねると青年は力説する。
「すごいですね。でも、人には人のペースですから、無理する必要はないと思います」
レティシアが淡々と返すとヘーゼルの瞳が三日月に歪み青年はレティシアに顔を近づけた。
「ありがとう、優しいね。レティシアちゃんだっけ。お家はどこ?今度ランチでもどう」
「お誘いありがとうございます。今は実習で忙しいので、また今度」
「振られちゃった」
青年は特に気にする様子もなくケラケラと笑う。果てしなく軟派でお喋りな人だと思いながらレティシアは魔力回路の浄化を続けた。
「ランチは残念だけど、家名だけは聞いてもいい?ちょうど優秀な治癒師を探してて」
「まだ見習いですので」
「青田買いって言うでしょ」
やんわりと断っても青年は全く引く様子はなかった。にこりと笑うとレティシアに詰め寄る。
「見ちゃったんだよねえ。俺がブースに入る前に出ていった隊員は炎の魔導士だった。俺は水の魔導士。つまりレティシアちゃんは少なくとも水と草の精霊は操れる。混合型の貴重種持ちってわけだ」
レティシアは警戒を強めた。ヘラヘラとして、何も考えてないように見えて鋭い。
「怖がらないでよ。俺は根っからの善人だよ」
レティシアは浄化を出来るだけ早く終わらせようと精霊に与える魔力を増やした。
「へえ、魔力の量まだ増やせるんだ優秀だね」
青年は魔力量の変化を目敏く読み取ると指摘した。絶対にこの人は性格が悪いと思いながらレティシアは無言で浄化を続けた。
「今話した化け物みたいな先輩なんだけどさ、相性のいい治癒師がなかなか見つからなくて死んじゃいそうなの。俺は先輩思いの優しい後輩だからさ、相性の良さそうな治癒師を見つけたら声をかけずにはいられなくて。名前だけでも教えてくれないかな」
レティシアの冷たい態度にもめげずに青年は一方的に話し続ける。
「水と草の治癒師なら多くはなくても探せばいますよ」
「そうだね水と草の2種混合ならそこまで珍しくないかもしれない」
にこりと微笑まれ、どこまで見透かされているのか恐ろしくなる。
ただ、おそらく青年は確証のないことも、あたかも全て知っているように話し、相手の反応から情報を引き出そうとしているのだろう。反応するだけ馬鹿を見ると思い、レティシアは無言を貫いた。
「ガードが硬いな。可愛くない」
「目の治療も必要ですか。可愛いので売約済みです」
レティシアが答えると青年はわずかに目を見開いた。
「あららレティシアちゃん、卒業後は専属になるの?まいったな」
「魔力回路の浄化、終わりました」
レティシアが早く帰るように促すとヘーゼルの瞳の青年は簡易ベッドから立ち上がる。体を動かし魔力回路に魔力を流し込んで様子を見る。
「…すごい」
思わず漏れた声は本心のようで、レティシアは得意げな顔をした。
レティシアに興味を持っている以上何かしら文句をつけて呼び出される事だって考えられる。何も言えないように治療は完璧に行った。
「君、専属なんかやめて宮廷治癒師にならない?」
ふと告げられた宮廷治癒師という言葉にレティシアは初めて動揺を見せた。
「勧誘ですか」
「いいや、本心だ。もったいないよ。貴重種でこれだけ才能があるなら宮廷でも重宝される」
青年は先ほどとは打って変わってとても真剣な顔をしていた。もし、青年になりたいと言ったら宮廷魔導士になれるのだろうか。
実家の経営状況を思い出し、レティシアはすぐに諦めた。
レティシアがマイアーベル伯爵家に嫁がなければ援助が途絶えて実家の経営は破綻する。家族と領民のことを考えたら専属治癒師になる以外の道などありえない。
「それは私の意思で決めるべきことではないので。貴族の結婚は家門どうしの結びつきです」
「じゃあ僕がお金持ちだったら?君が嫁ぐ予定の家門よりも家格が上で資産も豊富で全面的に支援するといったら君はどうする?」
レティシアは思わず黙り込んだ。困惑するレティシアの耳元で青年は囁く。
「ちょっと考えておいてよ」
青年は悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「とっても有益な時間だったよ。治療してくれてありがとう」
青年はそう告げると困惑しているレティシアを放置してブースの出口へと向かう。ご機嫌な様子でレティシアに手を振ると今度はとてもあっさりと去って行った。
青年はラフな宮廷服を着ていて、隊服でないどころから徽章すらつけていなかった。宮廷魔導士ではあるのだろうがどこの所属かはわからない。
しきりに話しかけてくる随分と自由な人だった。
おしゃべりなだけでマナーが悪いというわけではなかったが、青年の言葉は妙にレティシアの頭に残った。
「…次の方、どうぞ」
ヘーゼルの瞳を思いだしては悶々としながらレティシアは治療を続けた。