10.好きな人
ロベルトと会った後、レティシアは食料を買い込むとすぐに寮に帰宅した。寮には午前中に購入したアルの服が既に届いており、受け取ると食料と洋服を抱えて部屋に戻った。
「ただいま」
いつも通りアルからの返事はない。妙に静かだったため、ベッドで寝ているのかと思ったら、アルはソファーの上で長い足を投げ出し熱心に本を読んでいた。
「ずっと起きてて体調は大丈夫なの」
レティシアは買ってきた食料をキッチンに運びながら平静を装って尋ねた。アルは鼻をひくりとさせると顔を上げて目を細める。眉を顰めてレティシアの方を見た。
「なに」
読んでいた本をパタンと閉じるとレティシアの前まできて見下ろした。どこか不機嫌そうな顔をしていて緊張感が走る。何も心当たりのないレティシアはその場に立ち尽くした。
どうしたのだろうとアルを見た時、改めてアルが筋骨隆々な体つきをしていることに気づいた。
顔が綺麗だからついそっちに気を取られがちだが、全体的にがっしりとしていて厚みがある。肩幅が広くて腕も太い。身長もあるため威圧感があった。
そう思った時にはだめだった。
急にアルがアルではなくなって、男性として見えてくる。ロベルトに突き飛ばされた時のことがフラッシュバックしてレティシアの顔がこわばった。
「どこだ」
アルは相変わらず不機嫌そうで、レティシアに顔をずいっと近づけると低い声で尋ねた。
「な、なにが…」
掠れた声で聞き返すとアルは顔を顰めた。
「おい」
怒気を含んだ声に怯んでレティシアは手にしていた食料の入った紙袋を床に落とした。
「…あ」
慌てて拾おうとしたが足がすくみ手が震えて思うように拾えない。アルに不審がられる前に拾おうと焦るほど体は動かなくてレティシアは狼狽える。
アルは一瞬目を見開いて穏やかな口調で告げた。
「拾わなくていい」
レティシアの代わりに落とした紙袋を拾ってくれる。ゆっくりとした動きで近くの棚に袋を置くとレティシアの元に戻ってきて目の前に屈んだ。
レティシアの方が目線が高くなり、少しだけ恐怖心が消える。
「大丈夫か」
そう尋ねられてようやく気づいた。
レティシアは辺境伯家の令嬢として大切に大切に育てられてきた。男性に怪我をさせられるなんてことは今までに経験したことがなかった。ロベルトに突き飛ばされて思った以上に恐怖を感じていたのだ。
体の震えがなくなり呼吸も苦しくなくなってきて、安心したのも束の間、アルはレティシアの顔を覗き込んだ。
「レティシア」
顔を見られたくない、きっと酷い顔をしいる。
その気持ちだけが先走りすぎて、レティシアに触れようと伸ばされたアルの手を、反射的に叩き落としてしまった。
パシッと、思いの外大きな音がしてアルの手が弾き飛ばされた。アルよりもレティシアの方が何倍も驚いた顔をした。
「…っ」
なんてことをしてしまったのだろう。アルは何も悪くないのに。謝らないと。
「ごめんなさい、アル、あの」
自分でも何が起こっているのかわからず混乱する。
アルはそんなレティシアを見て目をキュッと細めると、その場に立ち上がった。
困惑と焦りでパニックに陥っているレティシアに優しく触れると背中と膝裏に手を回して体を抱き上げた。
「ひゃっ」
レティシアは反射的にアルの体にしがみついた。体が触れ合ってもロベルトの時のような嫌悪感は一切なかった。
先程までアルが寝そべっていたソファに降ろすと、アルはソファには座らずにレティシアの目の前に跪いた。相変わらず目線はアルの方が下になる。
「どこだ」
アルは先ほどから何かを探しているようだった。レティシアが小首を傾げるとまた鼻をすんすんと動かして、今度はレティシアの下半身を見た。
「足か」
そう告げると躊躇いなくレティシアのスカートに触れる。
「あ…ちょっと」
恥ずかしがるレティシアなどお構なしにアルはスカートの裾を捲った。
血だらけの足がアルの前に晒された。
アルはわかりやすく険しい顔をするとレティシアの足を膝に乗せて傷口をよく見た。
傷自体はそう深くなかったが、アルの食料を買うために歩き回ったせいで血だらけになっていた。
「た、大した傷じゃないから」
そう告げるとアルの眉間の皺がさらに増えた。
しかし、レティシアに何か尋ねることはなくただただ不機嫌そうに、その傷を見た後は手から水球を出して血と砂利の汚れを傷口から吸い取ってくれた。
攻撃魔法に適性のある者は治癒魔法が使えない。アルに傷を治すことはできない。それでも汚れたレティシアの足を綺麗にして傷が悪化しないようにしてくれた。
「自分で治せるか」
レティシアはこくりと頷くとアルが綺麗にしてくれた患部に触れた。魔力を注ぐと皮膚が再生して傷口が綺麗に塞がっていった。
アルはレティシアが傷口を塞ぐと何度も傷のあった場所を撫でて治ったことを確認しスカートの裾を元に戻した。
今思えば部屋に入ってきた瞬間からアルはレティシアが怪我をしていると気づいていたのだろう。
心配してくれていたのだとわかると強張っていた顔が緩み、レティシアの顔に笑顔が戻る。
「ありがとう…手を弾いてしまって、ごめんなさい」
素直に謝るとアルは特に気にした様子もなく短く答えた。
「べつに」
今度は少しずつ手を伸ばした。
レティシアの頬にちょんと触れて、怖がっていないことを確認してから優しく頬を撫でた。
ロベルトに触れられて箇所がアルの手で上書きされる気がして、レティシアは自然とアルの手の上から自分の手を重ねて握った。アルはレティシアらしくない行動に驚いたような顔をした。
「何があった」
青い瞳が心配そうにレティシアの事を見ていた。その瞳に全てを託してしまえたらどんなにいいのだろうと思った。
しかし、今アルとレティシアを繋ぐものはこの不確かな同居生活だけ。
レティシアは震える声で答えた。
「転んだ」
アルは一瞬、瞳の奥に強い怒りを宿したがすぐにまた無表情に戻り、レティシアの体を引き寄せた。
「アル…?」
アルは優しく抱きしめたまま、とんとんとレティシアの背中を撫でた。それだけでレティシアはとても安心できて、張っていた気が緩んでいく。気づいた時には瞳から涙がこぼれ落ちていた。
どうしてアルの前では我慢できずに泣いてしまうのだろう。レティシアは諦めてアルの胸に顔を埋めた。
その後、アルに抱きしめられているとレティシアのお腹が大きな音を立てて昼食を催促したため2人でソファに並んで、買ってきたキッシュを食べた。
お腹が膨れるとアルに買ってきた洋服を渡して着替えさせた。
ただのシャツと黒いパンツなのに、服がシンプルなゆえに素材の良さがますます際立ち、文句のつけようがないくらいかっこよかった。
「ずるい」
レティシアが呟くと、アルは不思議そうに首を傾げた。
アルはかっこいい。
それは紛うことなき事実であるが、レティシアの思うかっこいいは、世間一般のかっこいいとはまた別で、レティシアの目に映るアルはかっこよくてても、そうでなくても、かっこよく見えるのだと思う。
ロベルトと会ったことで自分の気持ちがはっきりした。
ロベルトに触れられるのはとても嫌だったのに、アルは全くそんなことはなかった。むしろとても安心してもっと触れて欲しいと思うくらい。
どうしてこうなってしまったのかわからない。
それでも確かに、レティシアはアルのことが好きだった。気づいてしまえば何故気づかなかったのか不思議なくらい、レティシアの気持ちはアルに一直線だった。