三話 魔女は下命を賜る
棲家を後にし、一夜が明け陽がまた頭上へと昇った頃、魔女は家へと戻った。人の営を垣間見て、そう言えば生き物には食事が必要だと近くになる食べ頃の果実をいくつかもぎ取ってきた。運良く今は恵の季節であり、果物は潤沢に実っていた。
入口近くにドサリと森の恵を潰れない程度に無造作に置いた魔女は、人の子に与えようと室内をぐるりと見回した。しかしカラスが定位置である窓に停まって居るだけで、かの子供の姿が見えない。その為、彼女はなぜか幼子の気配がする自身の調合室へと向かったのだ。蔦の葉をヒラリと押し、先へと進んだその光景に彼女は思わず眉根を寄せた。
「…これは…一体どういう事だ?」
そこには何故か大釜の手前で蔦で編まれた網に見事にかかり、宙に吊られている人の子が、その中で丸まって寝ていた。
中で暴れ回ったのか、まるで警戒色の様な目に鮮やかな赤と黒の衣装が肌蹴ており、そこから肌白い腹がチラリと見えていた。まるで繭の中に居るかのようにスヤスヤと心地よく眠る人の子に、魔女は状況がいまいち理解ができない。
そもそも、この網は一体何処から出てきたのか。そして、何故吊るされているのか…
『お前が仕掛けた罠だろう…』
「は?」
呆れたような使い魔の言葉に、思わず彼の方へ振り返る。網を視界に入れるためだろうか、背後の椅子へと場所を移動したカラスに説明を求めるよう視線を合わせれば、何処か疲れきった風に首を左右に振った。
『以前湖の魔女が来た際に付けていただろう…』
「…湖の魔女…?……あぁ…」
その言葉で思い出した。確かに設置していた。
まだ魔女になりたての彼女が以前、挨拶にやってきた際にこの大釜がある調合室へ入ったのだ。あちこちと勝手に物色をし、調合していた薬を滅茶苦茶にされてしまった。その後、対策として大釜の前に捕縛用の罠を作って設置したのだった。
…しかし、それはもう記憶も彼方の遥か昔の頃だ。まだこの木もそこまで成長しておらず、他の木々と同じぐらいの高さだった時代。
「よく覚えていたね。忘れていたよ」
褒めるようにそう言えば、『そんな事よりさっさと降ろしてやったらどうだ』と羽を広げてみせる使い魔。その言葉に眉を寄せた魔女は人の子へと視線を戻し、半目で不快感を顕にじっとりと睨む。
なぜ私が。そもそもこの人の子が勝手に入らなければ良かったのでは無いか。手間がかかる。これだから人の子は。
ブツブツと文句を零せば、『預かり物なんだろう!』と言うカラスの言葉に渋々片手を振るわせる。鋭い風圧がいとも容易く網の支え紐を断ち切り、人の子は網ごと下へと落下した。受け止めるなどという考えは魔女には一切無く、ドシンという落下音がした後に目の前の幼子の声にならない悲鳴が聞こえた。
「ふむ、目が覚めたか」
「な…っ!女魔獣!」
あの状況でもぐっすりと眠っていた割に、落下の衝撃からか覚醒は早く、魔女を視界に入れた人の子は、隠しきれない驚きの表情のままにこちらを指さして叫んだ。
「魔獣…?」
思わず繰り返す衝撃的なその言葉を、じっとりと時間を掛けて理解すれば、ふつふつと魔女の中から黒い感情が溢れ出す。
魔獣…?この、私が、魔獣だと、この人の子は言ったのか…?正式にかの御方から御力を授かりしこの私が、あんな、力を掠め取り、かつ持て余し暴走するような獣の成れの果てに?…やはり、殺してしまおう。私を最大限侮辱したとなれば、御優しいかの御方もきっとお許しくださる。
そうと決まれば早速と、光が消えた瞳で先程から何やら喚く人の子を握り潰すように手を伸ばせば、突然後頭部に当たる衝撃。その勢いのままに、頭が思い切り前方へと押し出され、貯めていた力は霧散した。
「…何をする、カラス」
一晩前は殺生に興味も無かったはずの使い魔からの、妨害するかのような行動。今も目の前で、まるで人の子を庇うかのように、器用に羽ばたきながらその場に留まっている。
「カラス、こたーーーー」
『主が不在の間、あの方が様子を見に来られた』
応えろ、そう続く筈だった言葉はカラスの言葉に遮られた。突然の目の前のやり取りに、何時でも応戦出来るように身を固くする幼子をちらりと見やった使い魔は、驚きに目を大きく開かせた魔女に再度視線を戻し鋭く睨みつける。
『万が一にも殺すことはあってはならん。私が目をかけた子供だ、任せたぞ。…そう言っておられた』
カラスを介して告げられた、かの御方のお言葉。その下命に、グッと唇を噛んだ。自身よりも優先された目の前の幼子を射殺しそうな目で睨むが、なんとか深呼吸をし、感情に蓋をするように落ち着けさせる。
「…賜りました」
「な、本当に城に戻してくれるのか…?」
魔女の、見えない主君に告げた言葉に、見当違いな解釈をした人の子が瞳を輝かせる。それに彼女は鼻を鳴らし、不機嫌も顕に腕を組んだ。
「何を訳の分からない事を言っている。非常に残念な事に、お前はこのまま、誠に不快だがここに居ることになった」
全く幼子の話を聞いていなかった魔女は、自身のことを棚に上げ冷めた目で人の子を見下ろした。彼女が殺気を閉まったことにより、やれやれと言わんばかりにカラスは窓辺に羽を休めるように止まる。
希望から落とされたのだろう、目の前の人の子が一瞬惚けた後、顔を真っ赤にしてこちらを指さした。
「今、賜ったと言っただろう!」
「お前に言った訳では無い」
「では!誰に言ったんだよ!ここには、お前と私しか居ないだろう!」
「…それをお前に言う必要は無い」
面倒臭いと言わんばかりの魔女の冷めた対応に、人の子が言葉を重ねようとしたその時。この殺伐とした雰囲気に似つかわしくない異様な虫の音が聞こえた。
聞いたことも無い、グゥという大きなその鳴き声に魔女は思わず辺りを見回す。大分近いところから聞こえた気がしたが、新種の虫でも生まれたか?それとも大型の魔獣か?
虫ならば毒虫で無ければ良いが、魔獣ならば早めに手を打たなければ後が面倒だ。
『違うぞ、今のはその子供の腹の虫だ』
「腹の虫…?」
当たりを警戒するように、気配を探っていた魔女に助言したのは、頼りになる使い魔だ。視線を人の子に戻せば、先程よりも顔を赤くしてカラスの言う通り腹を軽く抑えている幼子が小動物のようにぷるぷると小刻みに震えている。
なんだ、腹の虫だと?寄生虫か?それが人の子になにか悪さをしているのか?下命を受けた早々に死なせるのは流石に不味い。なにがそこに居るのだ?煎じ薬か?だめだ、種類が分からないと薬は作れん。腹を裂けばいいか?いや、死ぬか。
『落ち着け主。ただ腹が減っているだけだ』
無言で混乱する魔女にどこか呆れたようにカラスが告げたその言葉に、ただの空腹音かと深いため息をついた。早々に死なせてしまうかと思い、何時になく慌ててしまった自身に表情には出さないが、内心不覚をとったと恥じる。
「悪かったな!しょうがないだろう、もう一日以上なにも食べてないんだ!」
人の子の悲痛な叫びが室内に響き渡ったのだった。