二話 少年は確信する
「待て!話はーーー」
忽然と姿を消した目の前に居た筈の女に、少年は途中で言葉を無くした。まるで乞食のように灰色のボロを纏った、しかし健康そうな肌艶のどこかちぐはぐな女が先程まで立っていた筈のその場所をまじまじと凝視する。
しかしまるで始めからそこには誰もいなかったかのように、何もない。
慌てて彼女が出たであろう外へと繋がる、ドアと呼んで良いのか分からないツタの葉で作られたカーテンを捲り、一歩踏み出そうとしたその時。今まで沈黙していたカラスが鋭く鳴き声を上げた。咄嗟に片足を上げた状態で止まった少年は、下から吹き上がってくる風にゆっくりと足を元の位置に戻した。
背後でカラスが身をよじるような軽い羽音を聞きながら、恐る恐る覗き込んだ足元。本来はすぐそこにある筈の地面は遥か下に広がり、他の木々を軽く見下ろせるような場所に自身がいることがわかった。
「ーーーーーーッ!!」
声にならない叫び声を上げた少年は慌てて後方へと飛び退く。バクバクと早鐘を打つ心臓に手を当て、最近はこんな事ばかりだと深く安堵の息を漏らせば、気を失う前の命懸けの逃走劇が脳裏をよぎる。魔獣の異質でありながらも溢れる高貴な気配と鋭い殺気を思い出し、少年は身体を軽く震わせた。
先程、扉を開ける前に女が言った、”殺していいなら殺している”。初めは誘拐犯かと推測したが、あの、人とは思えない異質ながらしかし漏れ出る気高さ。それは何処と無く、物語などで語られる空想の王、魔王を思い起こさせるあの魔獣と通じるものが感じられた。
やはり、あの得体の知れない女は魔獣の仲間かなにかではないだろうか。人型と言うのは聞いたことがないが、霞のように消えた現実ではありえない状況も魔獣と言われれば納得出来る。
通常の動植物に何かが加わったような突然変異をし、辺りの生態系を脅かすという謎が多い生物、魔獣。それが、まるで侵略するかのように突如姿を現し始めたのは約100年程前だという。発生場所は様々で、深い森の中で見つかる事もあれば、王都近隣で出現する事もある。騎士やギルドが連携し、長らく調査はしているが未だに原因は分かっていない。
騎士団に身を置く師からは、人型は確認されていないと言われていたが、ただ単に知能を使い人里から離れていただけだったら…
自身の考えに、少年は血の気が引いた。そうだ。そうに違いない。母上と同じような年齢に見えたが、頭に乗る髪は老婆のように真っ白な白髪。あれは間違いなくなにか禁断を犯し若さを手に入れたのだろう。その力とはきっと魔獣の力なのだ。
そうであるならば、この女魔獣の住処からなんとかして早急に脱出しなくていけない。いつ奴が帰ってきて餌にされるか分からない。この住処は先程見て大分高い位置にあったが、さてどうやってここから逃げ出すか。
まずは脱出経路だと、 少年はぐるりと辺りを見回す。机や椅子に見立てた太い枝、先の方には青々とした葉が風に揺られゆったりと揺れている。今も少し肌寒い風が入り込んでくる窓には、我が物顔でカラスが一羽、羽を休めている。
考えるまでもなく、落ちかけた自身を引き止めるように鳴いたのは彼だろう。理性を感じるその瞳と目が合った。まるでこちらを監視するようにじっと見つめる黒い眼差しから逃れるように目を逸らした先にあったのは、これまた木の枝で作られた壁棚だ。
机や椅子よりも細めの枝に器用に棚板を渡してある簡易な棚が左右二箇所にあり、手前側の上には、この近辺で取れるのか乾燥された果物が種類ごとに、少年の顔ぐらいの大きさがあろう葉で作られた器に盛られている。奥の方には先程よりも更に大きな葉の器があるが、この場からは中身が見えない。好奇心に駆られ近づいて覗き込もうとするが、自身の小さな体ではこのままでは中を見ることはできなさそうだ。持ち上げて中身を見ようと手を伸ばせば、再度聞こえるカラスの鋭い鳴き声。
どうやら触ると危ないらしい。そっと手を引っ込めた少年はそろりそろりと棚から離れた。
この太すぎる枝をそのまま活用して家具モドキを作っているのであれば、相当大きな木に作られているはず。もしそうならば、木を伝って地上へと降りられるはずだ。
希望の光が見えた少年は、どこか窓から出られないかと再度見回すがカラスが居る窓に近寄るのは少し怖い。かといって、先程まで自身が居た部屋は確認済みだ。高い位置にある窓は手も届かず、澄み渡る青空しか見れなかった。とすれば、女魔獣の部屋と思われる蔦の葉で遮られた向こう側のみ。
いつ彼奴が戻ってくるか恐ろしくあるが、それよりも早く脱出すればいいだけだ。
しかし、その前に魔獣の秘密になるような何かがあれば、それも持っていこう。そうすれば父上もまた自分を見てくれるはず。母上が亡くなってからここ一年ほど全くお会いしていない父上の広い背中を思いだし、少年は俄然やる気が出て思わず両の手を目の前で強く握る。
抜け道と魔獣の秘密を探すために、少年は蔦の葉のその向こうへと一歩踏み出したのだった。