二十五話 少年は殴られる
思わずギリリと奥の歯を噛み締めた少年は、ニヤニヤと卑下た笑みを浮かべた目の前の賎しい男を鋭い瞳で睨みつけた。
しかし、睨みつけるだけで少年は何も言えない。異端の血というのはよく分からないが、ここでこの男の逆鱗に触れてしまえば何をされるか分かったものでは無いと幼い思考でもわかったからだ。キツく下唇を噛み締めた少年に、男は大袈裟に両手を広げる。
「大丈夫ですぞ!殺すなんて、そんな勿体ない事は致しません!しっかりとワタクシが飼って差し上げます!えぇ、王宮で無用に繋がれている殿下を有効に使って差し上げますとも!」
「いえ、今は忘れられた森の中…でしたかな?全く…手間が掛かりましたぞ」と身勝手にもギロリとこちらを睨みつける男に、少年はコイツか、と心の中で呟いた。
私の命を狙っているという不届き者は、コイツらか!…もしかしたら、母上を殺したのも…!
震え、凍えるように寒かったはずの身体に、熱い何かが込み上げてきた。それは温めるどころか内側からまるで焦がすようにその身を巡る。カッと頭にまで熱が登ってきた少年は、後ろに縛られている両手に力を強く込めた。
すると、先程まで一切解けなかった縄が何の因果かブツリと切れた。同じく足にも力を入れればそれも容易く解ける。ゆっくりと両手を前へと持ってきた少年は、手の感覚を思い出すかのように閉じたり開いたりを繰り返す。その動きに目を見開いて驚いたのは男だ。次の瞬間、忌々しげに大きく舌打ちした彼は、「くそっ!誰だ縄をかけた奴は!甘く縛りおって!!」と背後に大声を上げた。
大きな巨体を揺らしこちらに手を伸ばす目の前の男のそれを振り払った少年は、熱い身体の言うままにサッと背後へ飛んだ。狭い部屋の壁が背中へと触れた少年は、それでも隙なく男を観察する。何が起こったのか分からなかったのだろうか一瞬目を瞬かせた男の顔はしかし次の瞬間、激昂したのか真っ赤に染まった。
「小生意気な餓鬼め!大人しく縄に繋がれろ!」
ドスンドスンとまるで地を揺らしかねんと足音荒く近寄ってくる男の隙だらけの身体を俊敏に避けた少年は、その勢いのまま男が入って来たこの部屋唯一の出口である扉の取っ手を掴み開けようとしたが、それよりも速く独りでにそれが開いた。
そこに立っていたのは何処か慌てた様子のガタイの良い男。腰に何本もナイフや長剣を差しているそいつは、目の前に居た少年に驚いた様子で少し身を振るわせたが、背後の男爵が「ソイツを捕まえろ!」と叫べばすぐさま伸ばしたままの少年の手首を掴み上へと吊り上げた。
「全く…油断も隙もない小僧だ」
吐き捨てるようにそう言った男爵と呼ばれた男は、苛立ち紛れに少年の腹を勢い良く殴りつける。年端も行かない小さな身体にとってその一撃は強烈そのもので、今まで巡っていた熱い何がが一気に霧散したのがガンガンと鳴る頭の片隅でわかった。少しでも痛みを緩和させんと身を縮こまらせようとするが吊り上げられている今の状態ではそれも難しく、ただ芋虫のように身をくねらせるだけだ。
腹の中から酸っぱいものがせり上がってきた。それを飲み込む気力も無く、ダラりと口の端から零れ落ちる。
そんな少年の様子をまるで穢らわしいモノでも見るかのように侮蔑を込めた目で見下ろした男爵は、彼を片手に持つ男に一言放った。
「四肢を切り落とせ」
聞き間違いかと少年は揺らぐ意識の中で大きく目を見開いたが、男の蔑んだ視線は変わらない。背後の男も小さく息を飲む音が聞こえたが、しかし次の瞬間「わかりやした」と言いつつ乱暴に少年を床に叩きつけた。
全身を襲う痛みと共にグゥッというまるで蛙が鳴くような声が自分の喉から漏れでた少年は、しかしその背後から聞こえる嫌に冷たいチャキッという剣が鞘から抜ける音に、何とか逃げようと身を這わせた。
しかし足音は一歩一歩確実に少年に近付いてくる。逃げようにもボロボロな彼の体では満足に動く事は出来ない。あっという間にすぐ側までやってきた男を恐る恐る見上げた少年は、「すまないな坊ちゃん、男爵サマの命令なんで」とその剣が振り上げられる姿に思わず目を瞑った。
もう、何も考えられなかった。




