一話 魔女はため息をつく
「一体、何故こんな事に…」
人が踏み入れぬ未開の森の更に奥。樹齢五千年はあろう大樹と一体に建つこの棲家には、魔女が一人、住んでいた。
部屋の中にも我が物顔で生える太い木の主枝をそのまま活用した机や椅子。壁面を縦横無尽に這う細い副枝を用いた棚の上には干し草や干し果実、水盤など最低限の物しかない。
そんな中、魔女はお気に入りの椅子へと座り、何度目かのため息とともに恨めしげにこの棲家唯一の、真新しい扉をその翠眼で睨みつけた。窓から入り込む風が心地よく、自身の長い白髪を撫でるが気分は全くもって向上しない。
かの御方より託された幼い人の子が、魔女の心を苛立たせる。既にあの日から二度日が昇るが、人の子は一向に目覚めない。このまま目覚めず朽ち果てれば良いという感情と、かの御方から委ねられた人の子を死なすなどあってはならないという理性が彼女の中でせめぎ合う。
汚れや擦り傷だらけであった身体や衣服を何事も無かったかのように真新しく元に戻すという、常であればそのまま捨ておくような事をなされ、尚且つその麗しい姿を晒されておられるのだ。かの御方の愛し子と言っても過言ではない。しかも、それが人の子であるなんて…一体何をお考えなのだろう。
『何時まで扉を眺めているつもりだ』
何度目かのため息をついたその時、魔女の耳に声が聞こえた。徒人ならばそれはただのカラスの鳴き声に聞こえただろうが、その黒い鳥と契約を結ぶ彼女には人ならざる声が届く。
ちらりと窓へと視線を向ければ、先程までそこには居なかった一羽のカラスが窓辺で羽を休めていた。理知的なその黒い瞳からは、明確に呆れの感情が読み取れる。
『生かすか殺すか、さっさと決めたらどうだ』
「…簡単に言ってくれるな」
我関せずな使い魔の言葉に視線を鋭くするが、フッと目元を弛め再び人の子が眠る扉を見つめる。なにかに気がついたのか魔女は目を細めつつ、自身に言い聞かせるかのようにゆっくりと言葉を漏らす。
「私だって、殺していいなら殺してるさ。…ただ、それは望まれぬ事なだけだ」
そこまでいうと、徐に魔女は目の前の扉へと軽く手を伸ばす。椅子に座る今の状態からはどう見ても触れるはずが無いのだが、構わずノブを握るような動作をする。その動きを見たカラスが一声上げた。
意味を持たないその驚きを表す音を耳に入れつつ、彼女は握った手を勢いよく向こうへと押した。それに合わせ、独りでに目の前の扉が開く。そこには、予兆もなく開かれたそれに驚いている人の子が一人立っていた。
まるで植物の警戒色のような目に痛い赤と黒の衣装を身に纏っている、魔女より半分ほどの身長しかないその人の子。
己に向かって突然開いた扉に当たることも無く、咄嗟に避けたその反射神経に魔女は内心舌打ちをした。正直に言えば無様にぶつかって欲しかったのだが、それはおくびにも出さずニヤリと不気味に見えるように口角をあげる。
「ようやくお目覚めか」
不敵に笑う魔女に目の前の人の子は僅かに身体を固くしたが、負けじとこちらを鋭く睨みつける。
「何が目的だ」
「目的、だと…?」
サラサラとした金糸の髪の合間から覗く、透明感のある黄褐色の瞳が目に入る。
こちらを探るような、何処か狼を連想させるその瞳の奥から隠しきれない怒りと怯えの色が見て取れ、魔女はその幼い感情に思わず鼻で笑った。
かの御方の愛し子と言わんばかりの扱いに一体どういう者かと推察したが、今まで見てきた人の子とそう変わらない。確かに幼子にしては理知的だとは思うが、それだけだ。
「それをお前に言ってどうなる?脆弱なる人の子よ」
敵にもなり得ない。ただの親の庇護下にしか生きられない雛鳥。
途端に興味が失せた彼女は先程よりも温度が下がった瞳で立ち上がり、人の子へ背を向けた。そのままツタで作っただけの簡易な出入口へと向かう。
この住処は人の子の真新しい扉以外、全て出入り口を遮るものは蔦植物で作った緑のカーテンしか無い。棲家全体に風を取り込むためである。
全身に心地の良い大気の流れを感じながら、魔女は首だけ幼子の方へと向け続きを告げた。
「お前は、ただ時が来るまでここで大人しくして居れば、それで良い」
言いたいことだけ言った魔女は、後方で何か言っている人の子から既に意識を外した。預かった幼子へ気を向けて魔女の仕事を疎かにしてしまっていた。私とした事がなんという失態だろうか。
視線だけでカラスに人の子の監視を命ずれば嫌そうに無言で羽を大きく震わせる。それを了承と受け取った魔女はそのまま風の中に姿を消したのだった。