十六話 少年は鍛錬をする
最近また女魔獣が姿を現さなくなった。以前とは違いどうやら自室には居るようで、時折ブツブツと何事か呟いている怪しい声が聞こえる。一度気になって蔦の葉の合間から覗いてみれば、一人壁に向かって話しているのが見えそのままそっと離れた。あれは恐怖以外の何物でもない。
以前森の父が彼奴のことを魔女と言っていたが、確かにあの姿は物語に出てくる悪しき魔女そのものだ。謎のスープも混ぜているし。
しかし、やはり魔女は湖と火の山の二人のみという固定概念から抜け出せれず、未だに女魔獣と呼んでいる。そこまで女が反応しなくなったと言うのも要因の一つだ。
ひたすら自室に篭っている女魔獣とは違い、少年は森の父に連れられて久々の剣術指導を受けていた。空の上から叩き起されることも無く、安全に森の父によって下へと降ろしてもらっている。
だけれども優しいのはそこまでで鍛錬の時の彼は、城での師よりも鬼教官だった。
まず軽くストレッチを行った後、ウォーミングアップとして住処の木の周りを十周の走り込みから始まり、腕立てなどの筋力トレーニング、その後愛剣を用いての素振りをし、最後に森の父相手に地稽古を行い終了となる。
…一件簡単なように見えるが、筋トレは腕立てや腹筋、背筋にスクワットをそれぞれ百回だし、素振りなんて上下に振り下ろす基本的な物や斜めから切り込む様な特殊な物、果ては左右にステップを踏みながら振り下ろすなどとよく分からない物を全て五十回ずつ行わなくてはならない。可笑しいな、六歳なのだけれども。城の時の師でさえもっと優しいメニューだった。
それなのに現実は無情で。それを一日かけて行えば、当たり前だが終わった頃には足はガクガク腕はプルプルとその場に崩れ落ちる。城から着用していた衣服は早々に脱いで、女魔獣がどこからか持ってきた平民が着るような地味で簡易だがとても動きやすい服を使用している。
途中昼休憩は挟むがそこで大量に食べると後半の素振りで気持ち悪くなるのは学習済みだ。だからか、以前より晩御飯の量が増えた。…と言っても相変わらず果物だけだ。
昨日は見かねた森の父が以前湖の良き魔女が置いていったバスケットをどこからか持ってきてくれ、その中から一品出してくれた。まるで出来たてのように熱々のソーセージを半泣きで食べた。とても美味しかった。
「湖の魔女が用意した分しか入っておらん。短剣でも手に入ったら狩りをし、自ら調理をしなくてはならんぞ」
そう言った森の父の言葉に、改めてここが未開の地である事を思い知った。あくまで今は女魔獣によって生かされているだけなのだと強く感じたのだ。
そういうことがあり、早いもので既にひと月ほど経過した。月が真ん丸な満月を見て小さく息を吐いた。月が移り変わるにつれて鍛錬が終わっても膝を付かなくなり、素振り中に体がふらつかなくなり、筋トレが速く終わるようになった。少しずつ強くなっているように自分自身も感じているし、なにより見守る森の父から送られる満足気な表情にやる気が溢れる。鍛錬中の鬼畜加減は変わらないが。
そんな森の父は、今日は昼過ぎから女魔獣と出掛けるとの事で久々に一人になってしまった。鍛錬は危ないから休み…何てことは無く、筋トレを二百まで増やされた。その代わりに素振りはお預けだ。勿論、監視は居ないのでサボる事は出来るがここひと月で習慣になっていた為に動いていないと逆に違和感があり、一人寂しく最後のスクワットを行っている。
既に外は暗くなっており、女魔獣が置いていった熱くなく消えない蝋燭がゆらゆらと揺れている。
「…はぁ、もう無理…」
漸く全ての筋トレを終わらせた少年はその場にしゃがみ込んだ。所々休憩は挟んだが、あの鬼畜な父は本当に少年の年齢を把握しているのだろうか。今日の去り際に頭を撫でながら言った「程々に無理をしろ」という支離滅裂な発言は、過保護だけだったひと月前では想像できない。
「水を浴びたい…」と呟くが、ここにそんな良いものなんてある筈が無く。常ならば森の父と近くの小川まで水浴びしてからこの木の家まで戻るのだが、今日は無理そうだ。仕方がなくいつの間にか自室に置いてあったタオルで汗を拭き、用意してあった冷めても美味しいサンドイッチと果実で腹を膨らませた少年はベットへと潜り込んだ。
いつもならばすぐに眠りにつくのだが今日は直ぐに睡魔が訪れず、高い位置にある窓から覗く満月をぼぉっと眺めていればいつの間にか眠りについていたのだった。




