十四話 少年は混乱する
昨日に引き続き、少年は息がしにくいほどの突然の落下で目を覚ました。しかし、今日は叫び声を上げるより早くに誰かに優しく抱きとめられた。
急に暗くなった視界に上を向けば、見知らぬ黒髪の男がそこにいた。こちらを見る温かみのある眼差しに既視感を覚えたが、それがわかる前より先に彼が口を開いた。
「怪我はないか」
「は、はい…」
まるで美術品のような端正な顔立ちの男から掛けられた思いやりある言葉に、少年は思わず赤面する。
…って、違う。誰だこの男は!下から吹き上がる冷たい風から察するに未だにここは宙の上の筈。しかし、既に落ちている感覚はない。という事はこの男、空中に浮遊しているという事だ。え、また魔獣?今度こそ喰われるのか!?
慌てて身を捩って逃げようとしても、優しい手つきの割にガッチリと抱え込まれており少年は僅かにしか動くことは出来ない。
こんな時頼りになる森の父は未だ姿を見せず、女魔獣は論外だ。
「ファー!」
助けを求めるように、女の住処の方を振り返りカラスを呼べば、「なんだ?」と、何故か目の前の男が返答する。それにより、余計少年は混乱する。
父!?この男が私の父だというのか!?あれ、では父上は!?父上は私の父上では無いと!?え?では私は誰だ!?魔獣の子だったのか!?いや、流石に私にはそんな力は…はっ!もしや、何か秘められた力が…!こう、封印されし右腕…とか…!
コロコロと表情を変える幼子を楽しげに見ていた男は、そろそろ地上に降りようと広げていた漆黒の羽を羽ばたかせた。それによって出来た影に、少年は翼の存在を知る。
「あ…」
明らかに人ならざる者と分かるその異様なものに、少年は顔を引き攣らせる。あの女魔獣よりも圧倒的に魔獣らしいその姿に、ただただ恐怖しかない。
ゆっくりと地上に降り立った男魔獣は、少年を抱えたままその琥珀色の瞳を覗き込みながらゆっくりと口を開いた。
「この姿で会うのは初めてだな。私は、お前が森の父と名付けたカラスだ」
「え……は?…え?」
はくはくと口を開け閉めする少年を、急かすでもなくじっと待つその姿は確かに森の父に似ており、先程感じた既視感もそう言われてみればあのカラスの事かと分かった。温かみのあるその黒い瞳もあの優しく賢いカラスとそっくりで、少年は見知らぬ姿のその人の言葉を素直に信じられた。
「スコッグスファー…?」
「如何にも、我が愛し子よ」
ゆっくりと頭を撫でるその優しい手は、何故かあの女魔獣を思い起こさせるようなものだった。
「え、なんで…そんな姿に…」
ポツリと呟いた少年の言葉に森の父は苦笑した後、彼を地面へと降ろした。必然的に優しく撫でていた手も離れてしまい少年は物足りなく感じたが、彼はそれに気がつかずその場に立膝をついた。
「お前を強くするためだ。生きていけるように」
黒曜石のような美しい瞳に見つめられ、少年は息を飲む。
「この姿は、我が主から力を借りて形作ったものだ」
「え、女魔獣に…?」
そう続けられた言葉に少年は驚きを隠せない。森の父の主といえば間違いなくあの女魔獣しか居ないが、しかし奴がただ私の為に力を貸すなどと到底考えられない。何か企んでいるのか…
あの女魔獣の事だ、よからぬ事に違いない。まさか私の命を狙うという組織にでも売り渡そうというのか?嫌、そうであれば態々鍛えるなんて事しない筈だ。とすれば、まさか余興として魔獣との戦いでもやれと?…あ、物凄く有り得そう。
少年が女魔獣の不可解な行動に思考を巡らせていれば、「…以前から思っていたのだが…」という森の父の言葉に気が付き、ふと顔を上げた。
「その『女魔獣』というのは言わない方が良い。その言葉が出る度に、私はいつ主がお前に危害を加えるかと肝を冷やす」
「第一、何故魔獣などという思考になるのか…」と大きくため息を付いた彼に、少年はムッとして口を尖らせる。
「あんなちぐはぐで危険な奴、魔獣とそっくりじゃないか!それに、魔獣じゃ無かったらなんだと言うんだ!」
「勿論、人…なんて筈無いだろう!?」と続けて言葉にする少年に森の父は呆れたように小首を傾げた。その姿がカラスの姿の彼を思い起こし、少年は少し冷静になった。
「普通に魔女でよかろう?」
森の父の言葉を少年が理解するまでに三拍はかかった。何を言っているのかよく分からず、そしてあんなボロを纏った奴が美しい衣服を着ている湖の良き魔女と同じ存在だとも理解できない。いや、そもそも…
「魔女…?魔女は、湖と火の山にしか居ないはず…」
そう。魔女はあの湖の良き魔女と火の山に住む悪しき魔女の二人しか居ないはず。血のような赤い髪と言われている悪しき魔女と女魔獣とは特徴が全く似ておらず、別のものと考えられる。実際父上からお伺いする魔女のお話も、湖と火の山の二人しかお聞きしていない。
少年からこぼれ落ちた言葉に、森の父は一瞬キョトンとした後軽やかに笑った。
「この世はお前が思っているよりもずっと広いのだ、坊や」
そう言って彼はまた少年の頭を優しく撫でたのだった。




