十話 少年は落ち込む
目の前に居た筈の女が、まるで初めてあったあの日のように突如消え去った。湖の良き魔女の言葉に魔獣のような形相で彼女を睨みつけていた奴を見てしまった少年は、居なくなった女に疑問よりも先に安堵を覚えた。
「あらぁ?早速…かしら?」
「まあまあ」と困ったように言いつつも何処か楽しそうな良き魔女に、少年は視線で何があったのかを問うた。それを受けた彼女はにっこりと笑い、そのまま家の出入り口を示した。
「何か異変でもあったのでしょう、森のお方にお任せ致しましたら大丈夫ですわぁ」
そう言った魔女から森の方へと視線を移すが、少年の目にはいつもと何も変わらない何処までも続く木々しかそこになかった。
何も無いじゃないか。そう言おうとした少年を遮るように、聞き覚えのあるカラスの鳴き声が響き渡った。
「ファー!?」
「……ふぁー?」
思わず叫んだ名付けたカラスの略称に、湖の良き魔女が不思議そうに首を傾げるのを視界の端に収めながらも、少年は慌てて出入り口へと走る。外に落ちないように枠を両手で押えつつ乗り出すが、やはりそこにはいつも通りの森が広がるのみ。
しかしカラスのただ事ではなさそうな声から、やはり良き魔女の言う通りに何かがあり女魔獣が消えたのだと今なら信じれる。きっとカラスに何かあったのだ。あの賢い森の父の事、きっと上手く危険を回避して無事に戻ってくるだろう。…そうだよね…?
『いい子で待っているのよ?』
そう言って笑顔で出て行かれた母上が、冷たくなって戻って来られた姿が脳裏に蘇る。少し前まで幸せだったものが泡となって消えてしまう、あんな崖から投げ出されるような絶望はもうしたくない。
徐々に恐怖で震えてくる手をそっと握ってくれたのは、湖の良き魔女だった。
「そこに居ては、何かあった時に危ないですわぁ。中にお入りなさいな」
「し、しかし…ファーが…」
「そのふぁーというのは、もしかして森のお方の使い魔の事?」
場違い感があるおっとりとした口調の彼女に背を押され、森の方を気にしつつも少年は机へと戻った。あのおっかない女魔獣が居るのだから、きっと彼は無事に帰ってくる。大丈夫だと自分に言い聞かせる。
いつの間に準備したのだろう、暖かいミルクを差し出された少年はゆっくりとそれを飲んだ。そのほっとする甘さに、彼の心が落ち着いてくる。
「本当に面白い子ねぇ…陛下の愛し子なだけありますわぁ」
そう言って楽しげに笑う魔女に、少年は内心否定した。
寵姫といわれた母上との子供なだけで、私が父上に愛されたのは母上がご存命の時までだ。今はもう、気には掛けているかも知れないが愛し子と言われるまでに父上には愛されては無いだろう…
母上が亡くなってからは、似た私を見ると父上はいつも悲しそうな顔をなさるのを思い出し、少年の心は暗く落とされる。
「さて、私もそろそろお暇しなくてはなりませんわ。改めて私の使い魔を向かわせさせますので、料理はその子に習ってくださいませぇ」
「ーーーえ?」
父上の事を思い出し沈んでいた思考は、来た時と同様唐突に消え去りつつ残された、良き魔女の最後の言葉に浮上した。
自分以外誰もいなくなった部屋には、魔女が置いていったバスケットがポツンと机の上に残っているだけ。
有耶無耶に出来たかと思ったが、どうやらそうではなかったらしい。ここに来てから何もかも思うようにいかず、少年は頬を大きく膨らましたのだった。




