92 352-12 深淵(2083)
領主の妻子に続いて、大広間に入ってきたのはテオドール達だった。
戦場に慣れている者でも、室内のあまりに無惨な光景を見てショックを受けていた。床は血のついていない部分は殆どなく、水たまりのように血が広がっている部分もある。
内蔵をぶちまけている御遺体はあまりないが、領主のそれは酷い状態だった。ただ、服と肉塊としか見えない。
「おぇえっ……」
ぞろぞろと入ってきた騎士達が、次々に嘔吐く。
「どんな戦場でもここまで酷くはない……」
ガラスの窓を開け放ち、充満した血の臭いを緩和する。
歩けば、血と肉で滑る。危ないので、慎重に歩く必要がある。特にフルプレートは転倒すると、立ち上がるのに苦労するのだ。
「うわぁ……。これ、人間の仕業じゃないよな……」
「おぃっ!」
誰の仕業か、予想のつく状況に騎士の一人が不平を言うのを黙らせる。
「テオドールよ、世話をかけてすまんな。わしが全部したことにしておいてくれ」
「解りました」
さしものテオドールも、惨状に目をやり、苦虫をかみつぶしたような表情で続ける。
「それより老師。王都にセルヴィカのラファエル殿の軍が攻め込んだとの情報があります。国境付近に軍を展開中のため、王都の守備は手薄になっています。しかも、帝国の騎士が傭兵として参加しているという噂もあり、陥落も時間の問題かと……」
「うむ。国境へ向かうと見せかけて王都へ侵攻したか。こうしてはおれんな。マルセル! 急ぎ王都に向かえ!」
「はいっ!!」
「テオドールよ。今はフェリアに構っている場合ではないのだろうが、遁走した兵達の動向も気になる。ここに残ってはくれまいか?」
「そうですな」
「やっかいな事になったもんじゃ……」
ヘロンは、改めて腰を落とし床に手をついてナスターシアに向き直る。
「ナスターシア。いや、路加よ。ローディア王はわしの盟友じゃ。助けてやってはもらえんか?」
血まみれの床の上で、ナスターシアは父サイモンとの追憶に沈潜していた。
(お父様、何をしているの? 楽しいこと?)
(一緒に海が見たいよ! 行こうよ、一緒に!)
「……」
「今は、おぬしにしか出来ないこともある」
(なにか美味しいもの食べよう!)
ナスターシアに仕えるべき主があるわけではない。
(剣も使えるようになったよ! ほらっ)
あるのはただ、自分の気持ち。
(見てみて、きれいな服)
矜恃や志がなかったとて、誰に責められる立場でもない。
(今年は薔薇が頑張ってるんだよ、いーっぱい咲いたの!)
正直なところ、頑張りたくはないし、そんな必要すらない……。
(何を読んでるの?)
だが……。
「お父様……」
ナスターシアは、その心中で父と語らっていた。その軸はいつも、恥ずかしくないように……であった。
正心誠意。心、正し、其の意、誠なり。
畢竟、問わるるは彼我の境界。
『ナスターシア、自分の正しいと思うことをしたなら後悔しなくていい。間違っていたのなら、正しなさい。』
サイモンの幻影が叫ぶ。
『この世界に、思うがまま揮灑を刻めっ!!』
(シャルル王子……)
「……わかりました、お爺様。王と王子を……助けにいきましょう」
消え入りそうな、か細い声をヘロンは聞いた。これ以上負担はかけたくはないが、しかし、他に希望を託せるあてもない……。
「すまんな……。王を……頼む。後のことはイーファに託せばよい」
ナスターシアは領主屋敷を飛び立つと、先ずは商会の屋敷に寄ってみた。ヘルムが欲しいというのもある。が、それはすでに原形をとどめぬほどに焼け落ちた後であった……。
「ナスターシア様!! ご無事でなによりです」
「みんなも無事で良かった!」
エレナが出迎えてくれた。みんな安全な庭に避難して、疲れきった様子だ。そして、今後のことを考えて途方に暮れていた。
母マリーとお店の店子ライラとフィグネリアもいた。ライラの胸は相変わらずだ。しぼんだりするわけもなく……。
「ナスターシア。マルセルは、先に王都へ向かいました。あなたも行くのでしょう? 気をつけてね」
マリーが優しく顔についた返り血を拭き取ってくれる。その手はひんやりとしていた。顔は煤で汚れていた。ここはここで、戦いだったのだろう。
「お母様……」
とめどなく涙が溢れてくる。
思わず母の胸にすがる。止めようとしても、胸が苦しくなりどうにもならない。
「お父様の……仇は……とり……ました」
嗚咽でまともに話せない。
しばらくマリーの胸を借り、気が済むまで涙を流した。
「あらあら、可愛い顔が台無しよ。少し直していったら?」
顔を上げると、マリーが呆れるように言う。が、お陰で気が紛れた。
「ううん、後でいい。みんな待ってるから……」
「随分遠い人になっちゃったけど、頑張ってね」
「そんなことないよ。イーファもいるし、いつでも遊びに来て!」
うん、と頷き、ナスターシアを見送るライラとフィグネリア。
変わった形のヘルムを被ると、フェイスガードを降ろす。
冠羽が閉じ、ガラスのアイスリットから広い視界が確保される。
「行ってきます!」
翼を生成すると、空に広げ、羽ばたき、飛び去っていった。瞬く間にその姿が小さくなる。
「気をつけて……」
マリーは、寂しげにいつまでも見送っていた。