89 352-12 フェリアの恐慌(3120)
カイル暦352年。年の瀬も押し詰まった昼下がり、フェリアにあるフィーデス商会のお屋敷は、違った意味で俄に慌ただしさを増していた。
「大変です!!」
「どちら様でしょうか?」
「失礼しました、テオドール様の伝令です。至急お伝えしたい事がございます。老師にお取りなしを!」
「お待ちください」
屋敷の入口で、エレナが来客の対応をしていた。テオドールの使いと名乗った人物は、明らかに軍人で軽装ではあったが武装していた。
そして、なんだがとても慌てた様子である。
「お待たせしました。どうぞ」
伝令は、ズカズカと遠慮ない足取りで床を鳴らしながら入ってくる。
「どうした?」
中には、お爺様とマルセルがいた。
「大変です!! 街の外に軍勢が押し寄せています。というか、あれは我が軍です!」
「落ち着くのじゃ。して、テオドール殿は?」
「はっ! 我が主、テオドール様は単独で部隊を率いて、街の守備に向かいました。ですが……」
「相手の規模は?」
「約八千、たいして我々は、千もおりません」
「相手は、ここサラニア領の騎士達で間違いないのだな?」
「はい!」
「テオドールは、絶対与しないと知って諦めたか……」
「お爺様。どういうことでしょう? 自国の街を襲うなど、あり得ません」
「そうでもなくての。ま、説明は後じゃ。それより、テオドール殿にお伝え願いたいのじゃが……」
お爺様は伝令に、住民への指示や作戦などを事細かに指示を与えるとテオドールのもとへと急ぎ向かわせた。
「さて……」
マルセルも驚く大声で、緊急事態であることを屋敷中に知らせる。
何だななんだ? と、わらわら集まってる。ナスターシアの母マリーも、眠い眼をこすりながら現れた。
「緊急事態じゃ! 屋敷を出られる準備をせよっ!」
「マリー! 書類を集めていつでも持ち出せるようにしておけ! 金は重いから諦めてもいい。大事なのは帳簿だ!! ここの使用人を使え」
「はいっ!!」
「エレナは、屋敷の者の安全確保を! 荷物もまとめておけ。寒さをしのげる物を忘れるな」
「わかりました!」
「マリウス! 嫁のところへ行ってやれ。馬で走ればよい。心配するじゃろう。わしらは大丈夫じゃ」
「すまない……」
「マルセル! タイミングを見て、敵軍を無力化する。わしと来い! ああ、わしとナスターシアは防具を装備する。誰か手を貸してくれ」
「事務所から手を借りましょう」
「装備が整ったら、ナスターシアは上空から偵察してくれ。無理はするな」
「わかりました!」
ナスターシアは、甲冑に着替えると部屋から小箱を持ってきた。
「お母様! 忙しいところ悪いんですが、これを預かって欲しいんです」
書類を荷車の箱に積んでいたマリーが、手を止めて箱を開けてみると、なかには簪が入れられていた。
「うん、わかったわ。気をつけてね」
母が父からもらった簪。ロスティスの悪夢がうっすら脳裏に蘇ろうとするが、無理矢理押し殺す。
頷くと、そのまま偵察に出かけた。
屋敷のそとでは、護衛の剣士達が準備を整えていた。アランやロジェほどではないが、強者揃いである。そこらへんの騎士達より、よほど頼りになる。剣や槍の闘いなら負けないだろうが、弓で無防備な一般人を狙われればひとたまりもない。
数が圧倒的に少ないのだ。
「ここは、お任せ下さい」
「よろしくお願いします」
軽く会話を交わすと、ナスターシアは翼を生成して上空へと飛び立つ。時間がないので、髪はサイドをアップしたいつもの形のまま、ヘルムはかぶらない。
上空から見ると、既に街の外壁からなだれ込み、貧しい地域を蹂躙しているのが見えた。略奪や強姦は許可されているのだろう……。
マルセルとヘロンは、馬に乗って出ていった。マルセルは、昼間だというのに松明を持って走る。
住人が家に籠もって人気のない目抜き通りを疾走し、来い来いと合図をしている。ついていこう。
ナスターシアは馬と速度を合わせて、ヘロン達の真上に近づく。
「お爺様、門周辺に展開中です!!」
ヘロンの甲冑姿もなかなか様になっている。質実剛健な飾り気のないフルプレートである。フェイスガードは上げているが、剣でついたと見られる傷がいくつもある。いつから使っているのだろう?
馬にも防具が着けられていた。
それに、マルセルも馬に乗れたのか! という新鮮な驚きもあった。
(私は馬は要らないから……)
自分を慰める。
「そろそろじゃ! いくぞマルセル!」
正面からは、好き勝手に商店を襲い、品物を奪い、女に手をかける暴徒と化した兵達が、大挙して押し寄せている。
敵らしい敵もいない所為か、統率も取れておらず、やはり盗賊とたいしてかわらない。だが、数が多い!!
散発的にパラパラいる槍を持った軽装な兵を蹴散らし、単騎で突撃するヘロン!
突如現れ、鬼気迫る突撃を見せる一騎に、最初こそ動揺したが、すぐさま防御の陣を敷き、迎え撃つ。敵ながら、訓練はしっかりされているようだ。
ヘロンの突撃に合わせて、マルセルは後方から導火線に火をつけた爆薬を兵の群れに投げ入れた! 新開発の黒色火薬の実戦投入であった。
内臓を揺らすほどの爆轟が響く!!
何人か吹き飛ばされ、驚いた兵達が逃げ惑う。
陣形の崩れたところへ、ヘロンがロングソードで打ち払いながら馬の体当たりをする。次々に蹄の下敷きになる敵兵達。
難なく、門を突破して敵軍のただ中に突っ込んでいく。
さらに、ナスターシアの姿に気付いた兵達が騒ぎ始めた。
「守護天使を狙えっ!! 矢を放てっ!!」
「しかし!!! ここからでは味方に被害がっ!!」
「構うなっ!! アレを落とせっ!!」
「はっ!! 放てぇっ!!!」
敵の後方から、クロスボウの矢が雨のようにナスターシア目がけて降り注ぐ!
だが、矢は全て彼女を避けてしまう。クロスボウの矢は軽く、落下していくものは、特に殺傷力はない。ちょっと怪我をする程度であった。
「矢が避けるだとっ!! 貸せっ! 俺がやるっ!」
大弓を構えた騎士は、引き絞り、狙いを定めて矢を放つ!
矢は、ナスターシアに真っ直ぐに向かって飛翔する。
「よしっ! ……なにっ?!」
射者が驚くのも無理はない。胸に突き刺さると思われた矢は、次第に勢いを失い、最後は天使の小さな白い手に易々と掴まれてしまったのだ。
そして、射者はその死の直前、ナスターシアと目が合った。
刹那、彼女が投げた矢は彼の額を貫いていた……。
マルセルはヘロンの後をぴたりと付けて、敵軍深く切り込んでいく。
「ええいっ!! 何をしているっ! 敵は一騎だぞ! さっさと……」
城門の外で指揮を執っていた騎士の一人が、ヘロンに討たれた。あの老体のどこにこれほどの力が残ってるのかと思うほど、縦横無尽に暴れ回る。
だが、少々敵が多すぎるようだ。
退路も当然ない。
「マルセル!!!」
合図とともに、遠慮会釈のない強力な神力が一気に解放される。
マルセルを中心に恐怖の波動が、半球形の波紋を広げる!
マルセルとお爺様の憐れな馬は、泡を吹いて、その場にしゃがみ込んでしまった。
セルヴィカのときより、さらに強力に、広範囲に影響が及ぶ。周囲の敵兵は一瞬のうちに絶命していた。馬は感受性が合わなかったのか、比較的大丈夫だったようだ。
ヘロンやナスターシアでさえ、心臓が鷲づかみにされるような恐怖に縮み上がるほどだった。
兵達は、その数の多さが逆に災いし、一気に恐慌状態となった。もう、こうなっては立て直しは不可能だ。見える範囲の敵は、遁走していく。
ナスターシアが、ヘロン達の側に降り立つ。
「お疲れさまです、お爺様」
「ここは、なんとかな……。ごふぉっ!!」
ヘロンは盛大に吐血した。
「お爺様!」
マルセルが背中を抱く。甲冑の上からでは、さすれない。
「いかんな……。ちと、無理が祟ったようじゃ」
しばらく休んでいると、街の方から騎兵が駈けてくるのが見えた。