87 352-12 闇に蠢く(2118)
風邪で寝込んでいる間に、リュシスは王都に帰ってしまった。となりのマルセルの部屋でよろしくやっていたようだが、弱っていた所為で興味もなかった。
ベッドでゴロゴロしながら、物思いに耽る。
一年前には、リュシスが商会の会計をすることになるなんて、思いも寄らなかった。マルセルが読まされていたお爺様が書いた本を、暇に飽かして勝手に読んでからだ。
あれで、運命が変わってしまったようだ。
「お加減は、いかがですか?」
エレナが様子を見に来てくれる。
「大丈夫です。お陰で、もう咳も治まって、良くなりました」
「それはよかった。私は、久し振りにお世話ができて、嬉しゅうございますよ」
エレナは、細かな皺が刻まれ始めた優しい目を細めて続ける。
「あんなに鬱々としていたナセル様が、今では教皇様より偉くなっちゃったんですよ。凄いじゃないですか」
「それは、なんていうか、まあ、行きがかり上というか……。たまたまですよ」
「なんにしても、私は嬉しいのです。神様に感謝してます」
「ありがとう、エレナ。私こそ、エレナの顔を見られて嬉しいです。帰ってこられる場所があるって、いいなって……」
「滅相もありませんよ」
ずっと気になっていたことがあった。
「エレナは子供はいるの?」
「ええ、主人が戦争で亡くなってから私が育ててましたが、もう結婚して小麦を作ってます。孫ができるといいんですけどね」
「そうなんだ、楽しみだね。私も子供ができたらエレナに見せに来るから!」
「そうですか。……え? ああ、楽しみにしてますよ」
「信じてないでしょう? 神様の力を馬鹿にしちゃダメです」
「それじゃあ、本当なんですね! まあ、なんてことでしょう! 今から楽しみですわ。どんな可愛い赤ちゃんが生まれるのかしらねぇ」
エレナは、心底嬉しそうに話していたが、はたと我に返りいそいそと部屋を出て行く。
「あらあら、長居しちゃいました。失礼いたしますね!」
ベッドの上でいつまでもゴロゴロしていられない。体力も神力も有り余っている。
支度をして、庭に出てみる。
庭の薔薇の状態を確認する。手入れはしっかりされているようだ。古い枝は切り詰められ、誘引し直してあった。誰がしたかしらないが、なかなかいいセンスだ。
葉のない薔薇を眺めていると、喜んだエレナとは裏腹に、お爺様が浮かぬ顔で現れた。なにやら、思案顔である。
「どうかされましたか? お爺様」
「おお、ナスターシアか。ちょっと、ワシの部屋で話さんか」
お爺様の部屋は、相変わらず綺麗に片付けられている。書斎と言って差し支えない。お爺様は机の椅子に腰掛け、ナスターシアには対面の小さめの椅子を勧めた。
「実はな、帝国の動きが変なのじゃ。国境付近に展開しているという話なんじゃが、荷動きは鈍い。どう思う?」
「威力偵察的な感じでしょうか? 数に拠りますね。少なくとも、本気ではないのでしょう」
「そうなんじゃが、その数一万ということじゃ。修道院狙いかの?」
「こちらの対応は?」
「各領主に、国境付近への派兵を通達されたところじゃ。商会の私兵にも要請が来ておる。だが、どうにも腑に落ちん」
「クーデターですか? 内通者がいるということでしょうか?」
「皇帝が動いたと言うより、教皇が動いたのかもしれんとは思う。お主への敵愾心は、計り知れぬ。気をつけておかねばなるまい」
「予想より早く事態が動いたんでしょうか?」
「シャルル王子との婚約内定が効いているとみて間違いなかろう。何が飛び出してくるかわからぬ。心しておけよ」
「わかりました」
「ところで、リュシスのことじゃが」
「えっ!! わ、私がそそのかしたんじゃないです!」
「ん? 何のことじゃ? アレの神力のことなんじゃが……」
「えっ、あっ、すいません。勘違いです」
「うむ。変わった神力でな。普通の治癒は、体の一部の時間を早送りするようなイメージで治すんじゃが、彼女の治癒は時間を巻き戻すようなイメージなんじゃ」
「よく意味がわかりません」
「治癒は、体の細胞が活性化して早く治るんじゃが、例えば指が取れてもくっつくことはない訳じゃ。じゃが、リュシスの治癒は取れた指がくっつくどころか、流れ出た血すら元に戻る」
「凄いじゃないですか!! 私の顔が老けたら、治癒してもらえますかね?」
「そう上手くはいかん。神力の消耗が激しいのか、一度使うと大抵気を失ってしまうんじゃ。難儀よの」
「エクスプロ――ジョン! みたいな?」
「……すまん。ワシ、わからんわ……」
「時代が違いましたか……」
「……何の話じゃったかの?」
「リュシスの治癒ですね。試したんですか?」
「ああ、自分の指でな……」
「だ……、誰の?」
「はぁ……。リュシスのじゃよ。料理しているときに、うっかり自分の指をやってしまったらしい。で、覚醒したと……。と、本人から聞いた」
ゴクリッ……。
思わず想像してしまった……。
「ちなみに、落っことしたのは第一関節から先らしい。勢い余ったんじゃろう。花嫁修業の一環だったらしいぞよ」
言葉に、嫌みが含まれているようだった。
「生々しいです!! もうやめましょう! それに、私だって料理ぐらい出来ます、きっと」
「例えば?」
「ラーメンとか卵焼きとか!」
「……一応袋ラーメンのことかの?」
「……はい」
沈黙がしみる……。