86 352-12 ジジキトクスグカエレ(2393)
「お爺様! 死なないでっ!!」
フェリアの屋敷に入るなり、ナスターシアが叫ぶ。
「ふぁ?」
「えっ?」
ヘロンは、屋敷の一階にあるサロンでくつろいでいた。手には、木杯を持ち、暖炉の前で暖かな飲み物を飲んで温まっているようだ。
「お爺様、危篤なんじゃなかったの?」
「危篤? ああ、ちょっと体調が悪くて寝込んでたんじゃ……。誰じゃ、願望を込めて危篤とか言ったヤツは?!」
「……まあ、危篤じゃなくてよかったですけど」
「それより、のんびり養生もしてられん情報があってのう……」
ナスターシアの方は、小雨が降る夜更けに、無理を押して強行飛行してきたので、甲冑は冷え切って、中まで全身びしょ濡れだった。しかも、視界が悪く最後に迷ってしまったので一時間以上かかっていた。
「くちゅんっ!」
「まあまあ、そんなにびしょ濡れになって! 早くお着替え下さい」
「エレナ! 久し振り~っ! っちゅんっ!」
お爺様が、急遽お風呂を沸かし直してくれたので、ナスターシアは風呂で温まることにした。フェリアのお屋敷は、修道院の部屋より随分寒かった。建物が古いのは仕方ない。
風呂に浸かりながら、今朝のことを思い出す。
「ナスターシア様ぁっ!!!」
朝から騒々しくイーファが押しかけてきた。
十二月に入り、いろいろ慌ただしい。年明け早々には、騎士団の旗揚げ式も予定されているので、その準備もある。まあ、主体になっているのはアランだが。
「どうしたの?」
「ヘロン様がっ!! あなたのお爺様が危篤だって!!? 早く行ってあげて! すぐ飛んで行くのよっ!!」
「!!!」
もうそこからは、あまり覚えていない。
お爺様には、いろいろ迷惑と心配をかけてしまっていて、最近は疲れた顔をしていたから、いきなり危篤は驚いたが不思議ではないと思ったのだ。
取るものも取りあえず、支度をして任せる仕事を任せて夜には飛びだしてきたのだった。
(まったく、人騒がせなっ!)
ナスターシアは、まとめて背負ってきた荷物の中から、幸いにして濡れなかったモコモコの寝衣を取り出し、着替えると髪の毛を乾かしに行く。
「どうぞ、ナスターシア様」
エレナがドライヤーを漕いでくれる。
「ありがとう」
「あら、その耳飾り。誰かの贈り物ですか?」
そっと、ドライヤーの風に揺れるイヤーフックに触れる。ナスターシアの白銀の髪によく映える。
「これは……。ジョエル様から頂いたものです」
「よくお似合いですよ」
「うん……。ありがとう」
「ナスターシア様、ご無沙汰してます!」
サロンに戻るとお爺様の他にリュシスとマルセルもいた。
「あらっ、久しぶり。リュシスも危篤で呼ばれたの?」
「え? いえ、私は借金の督促状を確認してもらいに……。ここの領主ってば、借金返さなくて困ってるんです。返せないはずないと思って、調べに来たんですけどね。どうも、本当にないみたいなんです。何に使ってるんだか!」
「リュシスが、お金を貸す方になってる……。感慨深いね」
「えーっ、私そんなに貧乏なイメージだったんでしょうか?」
「……まあ」
「それはそうと、今度マリウス兄さんが結婚するんだよ」
ナスターシアとリュシスの馬鹿話に、マルセルが横やりを入れる。
「へーっ! 良かったじゃない! で、相手の人は、どこのどんな人なの?」
「農家の子だよ」
マリウスが、グラス片手に現れる。いつもの晩酌である。
違うことと言えば、木杯ではなくグラスを持っていることだ。グラスは高価なので、お祝いなのか、よほど機嫌がいいのか。
「気立てのいい子だよ。ぽっちゃりしてて、よく気の利くコロコロした子」
「そうなんだ、幸せにしてあげてね」
「どうだろう? 俺、ほら、こんなだから。苦労かけるだろうなとは思うけど」
「解ってるなら、気をつければいいじゃない?」
「人間、そう簡単に変われるものじゃない」
「せいぜい、浮気しないようにね」
「それがさ、浮気してもいいことになってるんだよ」
「はあぁっ?」
初耳だったようで、居合わせた全員が驚いた。
「ダメです、それは罪です」
と、マルセル。
「そうですよ、ダメに決まってます」
「そうなんだけどなんか、していいって言われると、しにくくなるよな……」
マリウスは、グラスを斜にしながら眺めて不思議がる。
なかなか賢い嫁なのかも?
「それで、年明けに私が結婚式で神父をすることになりました。なんだか、嬉しいです」
「じゃあ、私も!」
「ナスターシアは、ちょっと……」
「ちょっとって、どういうことよマルセル兄様!」
「……騒ぎになっちゃうから、草葉の陰から見守って欲しいんだけど」
「マリウス兄様まで! ひど~い! いいもんっ、勝手に教会の上を飛び回ってやるんだ!!」
どこの教会だろう? と思ったが、よく考えると農家の女の子と結婚というのはない気がする。
「ところでお兄様、貴族からの申し込みはなかったんですか? なんだか、ちょっと……」
「ほおぉ。そんなこと言うようになっちゃったんだ……。兄は悲しいな」
「えっ! あっ! そういうつもりじゃ……」
「俺は貴族じゃないし、次男だし、気楽に生きたいんだよ。残念ながら、ナセルには無理になっちゃったけどな。あ、今はナスターシア様か」
(地味にえぐってくるな……)
「ごめんなさい」
「シャルル王子と婚約するんだって? もう噂で持ちきりだぞ。俺ん中じゃ、『紫の上』になれるかどうかって感じで笑っちゃうけど」
「お兄様、酔っ払い過ぎです」
マルセルとリュシスが、ムラサキノウエに引っかかっているようだが、スルーする。
「お前こそ、ジョエル様はどうするんだ? 巷じゃ、もの凄く悪者になってるけどな」
「どうするも、こうするも。どうにもならないこともあるって、学んだんです。私の所為で誰かを苦しめたくないんです」
「は――っ。まあ、そうかもな」
マリウスは、ぐっと一気に酒を呷る。
翌朝。
「へっちゅ――んっ」
「ちゅんっ!」
ずび……。
すっかり風邪をひいてしまい、お爺様と入れ替わりで寝込むことになってしまった……。