26 352-05 5月祭 ナスターシア(下)(2587)
広場の手前で、人混みの中から現れたのは、領主の息子カルヴァンだった。そして、自分から声を掛けておきながら、何か気づいたらしく、突然気色ばんだ。
「なんだ、誰かと思えば、チビじゃないか」
「ナスターシアと申します。初めまして」
ナスターシアは、スカート部分の裾を持ってかるく上げ、左足を下げてうやうやしく挨拶した。
「ふっ、なんだそりゃ? なんか、着飾って胸まであるみたいだが、何が入ってるんだ? どれ」
そう言うが早いか、ナスターシアの顎を左手で掴みんで引っ張り、右手では服の胸元に手を差し入れてきた。
「やめてっ!!」
(いやらしいったらない!)
間一髪、阻止する。
「何をしている!?」
ドカッ
一瞬のことで、何が起きたがよくわからなかったが、誰かが領主の馬鹿息子を突き飛ばしたようだった。
「なんだ貴様っ!!!」
(ジョエル様っ!!!)
「騎士とはか弱き者を護るためのものだ。蹂躙するための剣ではない筈だ」
「お前はコイツを見て、何も思わないのか? コイツは……」
「美麗な淑女ではないか! 公衆の面前でいかがわしいことをしていい相手ではないと思うが?」
いつのまにか、まわりには人だかりが出来ていた。
「ふんっ。興が削がれたな。いくぞ」
護衛と取り巻きを連れて、その場から去ろうとする途中で、カルヴァンはナスターシアにそっと耳打ちした。
「調子に乗るなよ。お前の家と財産、それにお前自身も、俺のものにしてやる」
カルヴァンが去ると、周囲はヤンヤの拍手と歓声が上がり、ジョエルは、小突かれながらナスターシアの近くに追いやられた。
「あの、もうよろしければ、私と踊っていただけますか?」
「もちろんです、ジョエル様」
(今日はそのために着飾ってきたのですから!!)
「え? どうして私の名を?」
(ひょっとして気づいてない?)
「いえ。初めまして、ナスターシアと申します」
ジョエルは、ナスターシアの背中に手を回し、ナスターシアはジョエルの肩に手を乗せ、反対の手は互いに握る。
その手は、緊張から汗ばんでいた。
二人は、クルクルとポルカのような踊りを踊る。
周囲には、同じ様な若いカップルが何組か踊っていたが、周囲の視線をジョエルとナスターシアは独占していた。
ジョエルは服こそ粗末なものだったが、端正な顔立ちと後ろで束ねた癖のない金髪、騎士の清貧を絵に描いたような気品ある立ち居振る舞いのお陰で、ますます二人の存在感を際立たせていた。
クルクルと二人が回る度、ナスターシアの紺青の裾と白銀の髪がたなびき、薔薇の香りが振りまかれ、ジョエルはますます緊張するのだった。
楽士達の奏でる音楽がリズムを刻み、まるで永遠に宴が続くかのような時が続く。曲が終わりに近づくと、二人の息はだんだんと深くなっていった。
ひとしきり踊り、曲が止まるとジョエルの視線はナスターシアの真っ赤な唇に釘付けとなっていた。
(はっ!! これは!? 来たっ!!)
ナスターシアは、そっと目を閉じ、ゆっくりと顔を上げた。
……なにも起きない。
……なにも起きない。
「ナスターシアさん、お疲れなんですね。あっちで休みましょう」
(な……なぜ? 私そんなに疲れてる風だったのかな? 私だけ……恥ずかしすぎです……)
周囲からは、明らかにブーイングと罵声が飛び交っていたが、ジョエルには意味が分からなかったのかもしれない。
二人は休憩することにした。
「ジョエル様、なにか飲みませんか?」
バツの悪い空気をなんとかしようと、ナスターシアは飲み物を探した。
周囲には、出店が軒を連ね、肉を焼いたりパンを売ったり、そしてもちろんビールを売ったりしていた。
そんななかに、フィーデス商会の酒造部門が提供しているお酒を出している店があった。
「やあ、そこのお二人さん! 決まってるね! 新作のジュネバーがあるんだが、試してみないか?」
「いや、私は……」
「ジュネバー?」
なぜかナスターシアが喰い付いた。
「はい、どうぞー。お二人とも綺麗だから、俺のおごりだ! その代わり宣伝してくれよ!」
ナスターシアは、渡された陶器のカップになみなみ注がれたジュネバーを一口飲んだ。
(えっ? なにこれ、……美味いっ!!! 少なくとも、あのすっぱい常温ビールの百倍美味い!)
「はぁ。美味しい」
止まらない……。
「ちょっと、ナスターシアさん? 大丈夫?」
ジョエルに心配されたナスターシアだったが、それもそのはず。彼女達が渡されたのは、ジュネバーを薄めて砂糖と果汁を加えた、通称「レディキラー」だったからだ。
ジュネバー自身はアルコール度数でいうと40~50%くらいある。薄めても日本酒やワインと同じか高いくらいになる。
飲酒自体は、特に年齢による制限は実質的にも法的にも慣習的にもないので、誰かに咎められたりする心配はないのだが、健康的には問題があるかもしれない……。
「もうちょっと、欲しいかな?」
「おっ! いい飲みっぷりだねぇ、気に入った。今日は好きなだけ飲んでくれ!! おーいっ、じゃんじゃん持ってこい!」
ビールと違って、ジュネバーカクテルの値段は高いのだが、祭りの雰囲気も手伝って、出血大サービスといったところか。
「もう、やめておいた方が……」
「大丈夫ですよ。ジョエル様もどうぞ。美味しいですよ?」
「私、なんだかちょっとお腹すいちゃった……。あっ、スイカップちゃんだ~!」
スイカップちゃーん、と呼ばれてライラは恥ずかしそうに寄ってきた。
「どうしました? うわっ酒臭!」
ナスターシアは、ジョエルがライラの胸に視線を移すのを見逃さなかった。
「ジョエル様も、大きな胸が好きですか?」
(うわっ! しまった! 何聞いてるんだ私!!)
「あ、いや、私はそのような……ゴホン」
たじろぐジョエルを尻目に、ライラは胸の谷間から財布を取り出す。
「これで、なにか買って食べてください」
「ありがとう、スイカップちゃん!」
「ライラです」
「行って参ります!」
何故か敬礼するナスターシア。
「かわいい子ですね」
「ジョエル様、あれはナセル様ですよ?」
「は? ……え?」
「で、ナスターシア様をあんなに酔わせて、どうしようってんです?」
「いや、ちょっと待って。ナセル君は確か……男の子だった筈?」
「男の子に見えますか?」
「あ、いや、それは……全く……」
「ただいまー、いっぱいもらっちゃった! みんなで食べよう! そして飲もう! おーっ!!」
ジョエルの混乱は深まるばかり。
日は落ち、……気づいたら、何故かベッドの上だった……。