02 351-03 まじまじと観察したことはありません(2362)
自室のベッドに運ばれたナセルに待っていたのは、碌でもないことだった。
「瀉血してやるから、待ってな」
母マリーはそう言って、ナセルがベッドに寝かされているのを確認すると、今度はいそいそと道具をとりに部屋を出て行く。
瀉血とは、病気や体の不調の治療として、広く行われている医療行為である。本来は、医療行為なのだが……ナセルの母マリーにとっては、すこし違う意味も持つのであった。
(シャケツ? なにそれ?)
「母上、そんなことするとお爺様に怒られますよ? 母上がしたいだけでしょう!」
兄は母親のあとをついて歩き、抗議する。
「お爺様ぁ!! 母上がぁ~」
そんなことは全く意に介さぬ様子で、テキパキと準備が整えられる。
エレナは、ただならぬ雰囲気を察して、さりげなくもとの仕事に戻っていった。
「さっ、手を出して」
ナセルが、へっ? と思っていると、さっと腕をまくり上げられ、肘の内側の静脈に向けてメスのようなナイフが刺さり、血が出てきた。……手際が凄すぎる。
怖がったり、嫌がったりする隙すら与えない。
ナセルの細い色白な腕から、赤い生暖かい鮮血が筋をつくり、流れていく。
お母様はそれを、えもいわれぬ表情でうっとりと眺めている。
「うふっ、どう? 気持ちいい?」
(いえ、痛いです。当たり前ですが……)
血の滴りは、腕の皮膚を舐めるようにして、つつーっと手の甲にまわる。
そして、薬指の裏から落ちた。
ポタリ……。
ベッドの横に置かれたトレーに、音をたてて当たり、クラウンを作る。
緊張と静寂……。
ドガチャ!!
「何をしとるかっ!!」
「あら、お義父様。無粋な真似をしないでくださいよ」
いきなりお爺様がドアを開けて押し込んできた。
お爺様は、
「瀉血など何の意味もないからやめろと、あれほど言っておるではないかっ!」
「意味ならありますよ。どう? ナセル……。治った?」
「な……治りました!! もう大丈夫です!」
声が裏返った……。
「ほら! よく効くでしょう?」
(そうじゃない!! 断じてそうじゃない!!)
「もういい、下がれ! あとは儂がやる」
!?
「おぬし、またアルコール消毒せずにしたな? 仕事でするときは、ちゃんとしてるんだろうな?」
「……その場の雰囲気によりますね」
正直すぎる母上の返事にチッと舌打ちしたお爺様は、ナセルの傷口に手をかざすとなにやら、ボソリとつぶやいた。
一瞬の出来事だったが、傷はすぐ閉じ、出血も止まった。痛みもない。
(なんだろう? 魔法? すごいな。そういえば、何回か見たかな?)
「顔もじゃな。可愛い顔が台無しじゃぞ」
(えっ? ああ、他が痛すぎて気づきませんでしたよ)
「昼食まで休むがよい。全くドイツもコイツも無茶しよる」
「ありがとう、お爺様」
ブツブツ言いながら、お爺様は帰っていった。マリーは道具を片付けながら、お爺様の愚痴から逃げるように去って行く。
後には兄マルセルが残された。
「もう、今度からちゃんと言うこと聞くんだぞ。わかったな?」
「……ごめんなさい」
ナセルの口から期待した言葉が出てきたので、満足したのか兄マルセルも隣の自室に帰っていった。
ふーっと、落ち着く間もなく、また誰か来た。
「大丈夫か? 少しはマシになりそうか? ナセル」
今度はお父様、サイモンだ。
「うん……まだちょっと痛いけど」
「心配だな。どれ、ちょっと診せてごらん」
サイモンは本気で心配していた。不能になってしまったら、それこそ不憫である。
「や、ややややや、大丈夫です」
「何をそんなに赤くなっているんだ? 女の子に見られる訳じゃあるまいし。ちょっと診せてみなさい」
そういうと、サイモンはやや強引にナセルのズボンをめくり、確認した。
「うーん、ちょっと酷いかな。血はあんまりでてないが……。これは痛いだろう? 明日小便に血が混ざるようなら、ちゃんと言うんだぞ」
(なぜか、恥ずかしくて死にそう……。お父様なのに……。ていうか、お父様にだけは見られたくなかった気がする!)
一番まともな対応をした父親は、気遣いながらも仕事に戻っていった。
ナセルは、普段は朝から入るお風呂を沸かしてもらい、入ることにした。エレナに頼むと、なぜかお爺様がすぐに沸かしてくれるのだ。
(魔法でも使ってたりして……?)
そっと、服を脱いでいく。
普段からしてしていることなのに、なぜかとても緊張する。
静かな脱衣所に、衣擦れの音が響く。
胸はない……。あばらの浮き出た、つるんとした胸。
おへそ……。
その下は……。
とても正視できない!
心臓が早鐘を打ち、手足の動かし方すら忘れてしまったかのよう……。
(なんでこんなに緊張してるのっ!?)
とにもかくにも、湯船に浸かる。
家に湯舟があるのは、珍しいと聞いたことがあるのを思いだした。
(当たり前のようにお風呂に浸かるけど、これって贅沢なんだよね、きっと)
ようやくゆっくりと気持ちの整理ができる。
(感覚的には、中世ヨーロッパ……12、3世紀に近いのかな?
この家はかなり恵まれた家庭だったと思うし……)
とはいえ、今まで生きてきたナセルが別の人格になったわけではなく、むしろ転生前の魂が記憶抜きでナセルとして生きてきた、というのが正しい。
いままで、違和感を抱きながら生きてきたのは、その人格自体の性別が異なっていたこともあるだろう。記憶、経験が甦り、謎が解けてクリアになっていく感じである。
(お父様のことを、こんなふうに胸がきゅっとなるように感じるのは、幼い女の子が父親に感じる感情なのかな?)
同時に経験の記憶が甦ることは、精神的な年齢が一気に上がる事でもあった。だが、ナセルとしての経験、精神と融合され、境界があいまいになっている気がする。
ふと、父がひげそりに使う小さな鏡を見てみる。
知ってるはずなのに新鮮な気分。
(可愛い系だよね?)
以前の自分の姿を思い出しつつ、あまりよく見えない鏡の中の新しい自分の姿を見て思う。
(髪をもっと伸ばして化粧すれば、かなりのいいカンジ?)
既に大事なこと、今は男であるということを忘れかけていた。
「がんばろう」