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ビショップの妹は新伯爵の説得を諦め、邸から逃げ出した。しかし広い敷地を囲む高い壁は容易に越えられず、門から抜け出そうにも私兵が目を光らせている状況だ。
どうしたものかと考えつつ敷地内の林に身を伏せていた彼女だが、やがて放たれた犬に匂いを辿られ見つけられてしまった。
そうして結局ビショップの妹はララオーバ家お抱えの魔術師に眠らされ、新伯爵の寝室へと運ばれてしまったのだ。
彼女が目覚めたのは翌朝――しかも豪奢な寝台の上、新伯爵の腕を枕にした裸の状態で……。
妹は両腕で自らの身体を抱き、「そんな……お兄ちゃん」と顔を左右に振っている。頭で理解した状況を、心が拒んでいるのだ。
しかし薄笑みを浮かべた新伯爵は酒臭い息を吐き、悪びれずにこう言った。
「貴族に抱かれたのだ、誇りに思うがよい。そなたの兄も、さぞや喜ぶであろうな」
「お兄……ちゃん」
真っ白になった頭の中に浮かんでは消える、兄の優しい笑顔。妹は窓から入る朝日に目を細めつつ、もう自分には、それを向けて貰う資格が無いのだと思った……。
しかし上機嫌の新伯爵が、彼女のそんな変化に気付くはずも無く。虚ろな瞳の少女の白く艶やかな背中に指を這わせ、好色そうな声音で言う。
「私はお前が気に入った。今夜の相手も頼むぞ」
「はい……」
光の宿らぬ目で伯爵を見つめ、少女は頷いた。惰性だった。現状の不条理をようやく理解し始めると、無性に腹が立ってきた。
自分を捨てた親のことも、目の前の貴族のことも許せない。けれど、そんな奴等の為すがままにされる自分という存在が、何よりも不愉快だった。
ビショップの妹は奥歯を噛みしめ服を着ると一礼し、すぐに退室する。一秒たりとも、目の前の男と同じ空気を吸いたくはなかった。
それに伯爵に汚された自分の身体が、耐え難い程に気持ち悪い。もしも裏返して洗えるのなら、今すぐにもそうしたい衝動に駆られていた。
フラフラと揺れる足取りで彼女の向かった先は、ビショップと十年以上も暮らした狭い部屋だ。いつも兄が眠る床に腰を下ろすと、ついに彼女は持て余していた自らの感情を決壊させた。
滂沱の涙が溢れて止まらず、ただ嗚咽だけが静かな部屋に響いている。
思い描いていた未来の幸福が、ただ一夜を境に消え去ってしまった。これは夢だと思いたくても、身体に刻まれた爪痕が、残酷な現実を無情に告げている。
何もかもが崩壊しつつある妹の心の中で、兄の存在だけが唯一の救いだった。兄はきっと全てを知っても許してくれる、受け入れてくれる、そう思えたからだ。
――けれど、だからこそ気付いたことがある。
思えば幼いころからずっと、自分は兄の重荷だった。そこから脱却したくて共に働き、勉強をしたのだ。全ては兄の支えになりたくて……。
それなのに、こんな事になってしまった。また、重荷に逆戻りだ……。
たぶんきっと、自分は不幸体質なのだ――そう妹は結論付けていた。
だからこそ自分の不幸に、これ以上兄を巻き込むべきではない。
自分という存在が消えれば、きっと兄は幸福になるだろう。
「あは、あはは……なんでこんなに簡単なこと、もっと早くに気付かなかったんだろ……」
枯れるほど泣いた後、妹は決然と立ち上がる。邸を出る為だ。血の気の失せた亡霊のような顔で、彼女は正門へと向かった。
そんなビショップの妹を見咎めた門衛が、怪訝そうな声で聞く。
「まて、どこへ行く?」
「――伯爵様のお使いで、街まで行ってまいります」
「待て待て、侍女が勝手に外へ出ることは出来んぞ」
呆気に取られた門衛は、しかしジロリとビショップの妹を一喝した。
「あら、私がただの侍女だと言うの? 昨夜は伯爵様の寝室にいた、この私が?」
「そのようなもの、一夜の戯れということもあるだろう」
「――いいえ、伯爵様は今夜も私をご所望なさったわ。嘘だと思うなら、聞いてごらんなさい」
胸を引き裂かれるような想いで口にした彼女は、どうして昨日、こうした嘘が思いつかなかったのかと俯いた。
「う、あ、いや……そういうことなら、良かろう。しかし、日暮れまでには戻られよ。伯爵様に、くれぐれも心配を掛けぬよう」
門衛も相手が伯爵の情婦とあっては、強く言えない。ましてや新伯爵は道理の通らない男だ。ここは門を開けるしかないのだった。
「ええ、ご心配なく」
黒絹のような髪に生気の無い白い顔。しかし、そこに浮かんだ微笑が幽玄の美を思わせる。思わず門衛は少女に見とれていた。どうあれ新伯爵、女の趣味だけは良いようだ――と、一人納得をして。
――こうしてビショップの妹は、忽然と姿を消すのだった。




