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サーシャは前方に翳した小さな杖の先を見つめ、目を瞬いた。幾度召喚の呪文を詠唱しても、効果が無い。本来であれば今すぐにも現れるだろう黒衣の少年に変わり、耳の奥でバシッ――と何かが弾ける音が響く。
――どうして、なんで!? まさか召喚も出来なくなったというの!?
冷たい汗がサーシャの頬を伝う。
「どうして!? 呪文が弾かれるッ!? ガイがわたしを拒絶しているとでも言うの――ううん、そんなこと有り得ないのにッ!」
視線の先で杖の先端が揺れている。それは信じがたい出来事を前に、サーシャ自身の腕が震えているからであった。
「フハ、フハハハ――暗黒騎士なら、来るわけがねぇ」
サーシャの前に立つ三人のうち、もっとも巨躯の男が大笑する。雷鳴のような声が辺りに木霊し、ビリビリと響いていた。男はフードを右手で払い、鋭い歯の並ぶ口の端を吊り上げて言う。
「テメェは見捨てられたんだよ――グワハハハハ!」
男の顔は人のそれではない――黄金の鬣も美しい獅子で、いわゆる獣人系の魔族であった。彼等は一様に獣の特性と人間の知性を併せ持つ、生まれながらの強者なのだ。
彼等の中で最大の種族は人狼族だが、これと対を為す様に猫科の獣人もまた多い。中でも獅子や虎の頭を持つ者は最強種と云われ、憧憬の対象となるのが常であった。
だから「獅子頭の巨躯」という特徴は、そのまま強者の証ということになる。それだけでもサーシャにとっては厄介な相手なのだが、この男にはもう一つの特徴があった。
――隻腕。
サーシャはユラユラと揺れる男のローブ、その左側を見つめて、眉間に皺を寄せた。隻腕の獅子頭、そしてこの巨躯とくれば、嫌でも彼女の脳裏を掠める名前があるのだ。
「元魔将のディエゴ――なんでアンタに、そんなことが分かるのよ。いいえ――そもそもアンタ、なんで生きてるの……八年前に死んでるはずでしょ」
「魔将ディエゴ――懐かしい名だ。そいつはサーシャ=メロウ、テメェの親父のせいで犠牲になった、哀れな男の名だ――畜生」
獅子頭の男が「ペッ」と唾を吐く。
「下品な男ね、往来で唾を吐くなんて。でもアンタは獣だし、仕方がないのかしら……。それよりもう一度質問するわ。アンタ、ガイがここに来ない理由を知ってるわけ?」
「おいおいおいおい、俺が獣だと? サーシャ=メロウ――この裏切者の七光りがよぉ――随分とお高く留まってんじゃねぇか。
でもな――テメェは俺に、質問なんぞ出来る立場じゃねぇんだよ。分かるか、これからテメェは俺の前で股を開き、ヒィヒィ言いながら死ぬことしか出来ねぇ、哀れな囚人に成り下がるんだからよぉぉおお!」
「あ、そう――質問にも答えられないなんて、可哀想な生き物ね。アンタ大きな身体のクセに、ミジンコ程度の脳しか詰まっていないみたい。まあ、猫が動くにはそれで充分なのかしら?」
「ね、猫じゃねぇ。俺ぁ獅子だ」
「あら、脳の大きさは否定しないのね、子猫ちゃん」
サーシャは冷笑を浮かべ、相手を翻弄する。同時に気付かれないよう、もう一度、召喚の呪文を詠唱した。目の目では獅子頭がギリギリと牙を軋ませ、憤怒の形相を浮かべている。
「だから猫じゃねぇって、言ってんだろ……」
「ふふ……」
サーシャも、表情ほど余裕があったわけでは無い。何しろ召喚魔術がまたも弾かれ、ガイに届かなかったからだ。
契約状態にある従属者が、召喚に応じられない場合というのは二つある。一つは既に死亡している場合。そしてもう一つは高度な結界に阻まれ、召喚の術式が対象に届かない場合だ。
今回のケースは恐らく後者だろう。
なにしろガイの強さは勇者の攻撃さえ凌ぐほど、そう容易く死ぬとは思えない。しかも術式が弾かれている形跡があるのだから、サーシャがそう考えるのも当然だった。
――だけどわたしの術式を弾くなんて、ガイは高位の神官にでも捕まったのかしら……。
そこまで考えて、サーシャは目の前に立つ獅子頭を見上げ「ふん」と鼻を鳴らした。
ディエゴは他でもない、先の魔王が直々に処刑を命じたのだ。当時四天王であったサーシャの父は、それを忠実に実行したはずなのだが。
だというのに彼が生きているとなれば、国家権力に敵対する何らかの組織が動いたという事になる。
サーシャもまた、点と点が繋がり始めていた。
処刑されたはずの魔将を救い、暗黒騎士を捕らえ、高度な召喚魔術さえ阻害する敵の存在。しかもこれが魔国ステリオンの一都市、ララオーバにあるのだ。
ディオン国の諜報機関だろうか……。
否――これがディオンの諜報機関ならば、ニンゲン嫌いのディエゴがいる筈も無く。ならば、この組織は一体何であるのか。ここから先は今のサーシャでは、皆目見当がつかなかった。
解けた謎に代わって、新たな疑問が次々とサーシャの脳を圧迫していく。もともと頭脳派という訳でも無い彼女は、この時点で既に知恵熱が出そうだった。
しかも今のサーシャには、思考に使う時間など無い。獅子の獣人相手に暗黒騎士を召喚出来ない状態で近接戦闘に突入すれば、彼女に勝ち目など無いのだから。
だが、だからこそサーシャは顎に手を当て、相手に対して余裕を見せる。
勝つためには時間を稼ぎ、必勝の作戦を練るべきだ。ましてや敵の戦力が、目の前と後ろの人数だけとは限らない。まずは現状を正確に把握し、いかなる状況にも対応できる魔術を用意するつもりだった。
「それにしてもアンタ、おかしな事を言うわね。アンタのような魔将ごときが、このわたし――四天王を相手にたったの八人で挑むつもり?」
サーシャは敵の戦力を暴くべく、まずは舌戦を仕掛けることにした。時間を掛ければガイを縛る結界にも、綻びが出来る可能性だってある。
「いいや――戦うのは俺一人だぜ」
獅子頭が赤い舌を出し、ペロリと口の周りを舐めた。
サーシャは蒼い瞳を左右に動かし、辺りの気配を伺っている。どうも周りを囲まれているような気がするが、人数までは把握できない。見えている数が八人だから、その倍はいると考えた方が良さそうだ。
だというのに目の前の獅子頭は、自分一人で戦うと言っている。サーシャは苦笑を浮かべ、肩を竦めて見せた。
「一人? 何言ってるのよ――その割には、辺りに妙な気配があるようだけれど?」
——パンッ! 乾いた音が響く。サーシャの頬を、獅子頭の男が平手で打った。
十分な距離があり、後ろに飛び退けば相手の攻撃を避けられるとサーシャは考えていたのだが……。
あっさりと打撃を受けてしまった自分に、舌打ちしたい気分だ。それと同時に、自分と相手の戦力比を脳内で修正する。
「ぶったわね?」
「これが俺とテメェの実力差だ。四天王だろうが何だろうが――接近戦で俺に勝てるヤツァいねぇ――ましてや俺ぁ、テメェのお喋りに付き合う気なんぞねぇからな」
ギロリと見降ろす獅子の目が、残忍な輝きを帯びていた。それでもサーシャは、自分のペースに相手を巻き込むべく口を開き続ける。
「――ディエゴ、わたしを襲った目的は何?」
目の前の男とは、圧倒的なまでに身体能力が違う。というより――予想以上に素早く、力強い相手だった。ガイを呼べなければ、この男と直接の肉弾戦になる。それだけは避けたいと思いながらも、まだサーシャには良案が浮かばなかった。
「一つ言っておくが、俺はディエゴじゃねぇ」
ようやく獅子頭が会話に食いついたようだ。どうやら名前を否定したいらしく、苛立たし気に首を左右に振っていた。
「何よ、それ――獅子頭に巨躯、そして隻腕とくればディエゴ以外に誰がいるっていうの?」
「魔将ディエゴは処刑され、ララオーバの風になった」
「……風? ただ銃殺されただけじゃない。風じゃなくて、なったとしたら魚の餌よ」
「テ、テメェ……馬鹿にしやがって」
「馬鹿になんて、していないわ。それにアンタはディエゴじゃないんでしょ?」
「う、そ、それはそうだが……」
「で――アンタがディエゴじゃないなら、一体どこの誰なわけ?」
「俺はな、ルーク――……人獅子ルークだ。それ以上でも以下でもねぇ。いいか、四天王サーシャ=メロウ。テメェを殺すのは、このルーク様だ、覚えておけよ」
「殺されたら覚えておける訳ないじゃない。アンタやっぱり馬鹿でしょ、ディエ……」
――パンッ。
サーシャが言い切る前に、獅子頭が再び彼女の頬を平手で張った。
叩かれた衝撃でサーシャの顔が横にぶれ、白銀の髪が宙に踊る。端整な顔が歪み、苦悶の表情が浮かんだ。先ほどよりも強烈な平手打ちだった。
「また……ぶったわね」
「もう一度言う、俺はルークだ。ディエゴ将軍はララオーバの風になった。そしてお前は、これから更に酷い目に遭う――このくらいで狼狽えるんじゃねぇや」
ディエゴで間違いないと確信しつつ、サーシャは男の言い回しに違和感を覚えた。
ディエゴはただ武骨なだけの、対ニンゲン強硬派に過ぎなかったはずだ。それが妙に詩人のような言い回しを覚え、悦に浸っている。
もっとも、この男が風になったなどと言えば、サーシャには単なる冗談としか聞こえないのだが……。
獅子頭が手を広げ、サーシャに迫る。捕まれば、戦うどころでは無いだろう。
サーシャは奥歯を噛みしめ、もう一度ガイを呼ぼうと杖を構えた――。
「ガイ、お願い――来てッ!」
杖に願いを込めて、上から下へと大きく振り下ろす。だが、前方の空間には何の変化も起きなかった。
「グワハハハハ――無駄だって言ってんだろ、小娘! 今頃テメェの暗黒騎士は屍鬼になって、人の血でも美味そうに飲んでるだろうぜ、諦めなッ!」
ようやくルークが、サーシャの望む答えを寄越した。しかしそれは彼女にとって予想外のもので、素っ頓狂な声を上げてしまう。
「何ですって、どういうことよ!?」
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