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サーシャが唱えた呪文によって、俺の身体は淡い光に包まれた。最初にこの世界へ来た時も、ここへ転移した時も、そういえばこんな光に包まれた気がする。
サーシャは再契約することなく、俺を日本へ帰そうとしていた。
もちろんそれは、俺が彼女を怒らせたからだ。「キスして欲しい」と望んだことが原因のようで、どうやら彼女にとってそれは、とても重い意味をもつことだったらしい。
サーシャにとってキスとは、結婚する相手に捧げる唯一無二の行為だった。流石にその価値観を共有することは無理だが、でも、気持ちを理解することならできる。
だってキスをするなら、そのくらい好きな人としなきゃ意味がない。
なのに俺は契約の為にキスをしてくれなんて、とんでもないことを言った。
――人として最低だ。
でも俺はあの時、本当にサーシャとキスがしたいと思った。逆説的だが、彼女とキス出来るなら結婚しても本望だとさえ思ったのだ。
もしかしたら、これが一目惚れってやつなのかもしれない。そう思ったら、彼女を馬鹿にするようなことを言った気がして、途端に申し訳なくなってきた。
「サーシャ……ごめん」
淡い光の中で、俺は頭を下げた。ふわりふわりと身体が宙に浮いている。
サーシャは、わなわなと唇を震わせ涙目で俺を睨んでいた。
「うるさいッ! 謝らないでッ!」
サーシャの左手にある黒い指輪が、今にも消えそうなほど薄くなっていた。もう、ほとんど透明だ。ここで帰れば、彼女は二度と俺を呼べなくなるのだろう。
ララオーバまでの道中でザーリッシュに会ったら、今度こそサーシャは殺されてしまうかもしれない。
「サーシャ……冷静になれ。再契約の条件をもう一度、一から考えよう」
「嫌よッ! このわたしが一瞬でも、アンタのことを――……」
「え? 何?」
「何でも無いわッ! とにかくもう消えなさいッ! アンタの顔なんて、もう見たく無いのッ!」
サーシャはプイっと顔を背ける。
次の瞬間、視界が暗転した。転移だ――身体も落下していく。今度はきちんと着地しよう、とも思ったが――余りの無力感から俺は自由落下に任せることにした。もう、どうにでもなれ。
落下する感覚が終わり、何かの上に落ちた。転移が終わったようだ。
ゴチンという音が響き、自分がおでこを打ったことを理解する。「痛っ!」という俺の声と同時に「ひぎゃっ!」と、カエルが潰れたような声が下から聞こえてきた。どうやら誰かの上に落ちたらしい。
自暴自棄になって転移したせいか、意識が朦朧とする。目を開けることも出来なかった。
とにかく息を吸おうとしたら、何かに口を塞がれていて、ぬめりとした感触が口内に広がった。
「んっ! ん~~~~ん~~~~!」
下から呻き声が聞こえる。うるさいなぁ。
とりあえずギュッとしてみたら、とても抱き心地が良かった。
「ん、ん~~~~~!」
相変わらず呻き声が聞こえる。
そこでハッとした。家には今、誰もいなかったはずだが……帰ってきた母のうえにでも落ちたのだろうか?
だとしたら俺は母さんを抱きしめ、ニヘラっとしているのか。それじゃ、とんだマザコン野郎だ。
それに恐るべきは、この口の感触。温かくて、なのに固いものにも当たる。味は特に無いが、何となく美味しいような気がした。
俺の予測が正しければ、これはキス! しかもディープなやつだ! その上俺にとってこれは、ファーストなやつだった。
もしも……そんなことを母さんとしていたら俺、立ち直れないかも知れない。
「ん、ん~~」
まだ呻き声が聞こえる。俺が上に乗ったままだから、当然か。
しかし不思議な事に、俺の背中へ腕らしきものが回された。どうやら相手は嫌がっていないようだ。
「ん~~~~~! ん~~~~~~! んんんんんッ!」
それにしても、俺の下敷きになっている人物は何を呻いているのだろう。もしかしてキスしながら、喋ろうとしているのかな?
だとしても正直何を言っているのか、さっぱり分からない。
ただ、どことなくサーシャの声に似ている。なので耳に心地よく、思わずうっとりと聞いてしまった。
はぁ……未練だぞ、俺。サーシャに日本へ帰して貰った以上、もう彼女と会うことはないのだから……。
あ、そんなことより、下にいるのは一体誰だろう。俺をこんな風に受け入れてくれる人なんて、思い当たる節が無いんだけど……。
俺はようやく動くようになった瞼を、ゆっくりと開けた。
「んっ……?」
開けた瞼を、そのまま大きく見開いた。銀色の長い睫毛が、目の前で揺れていたからだ。
なんと俺の口を塞いでいたのは、乱れた銀髪を地面に広げ頬を上気させた、あのサーシャ=メロウだった。
「あ、あれ、サーシャ?」
慌てて唇を離し、身体を持ち上げる。サーシャも瞼を開き、蒼い宝石のような瞳を露わにした。
「ぷはぁぁっ……ア、ア、アンタ…………な……長い……わよッ!」
サーシャの目には、涙がいっぱい溜まっている。彼女から顔を離すと、柔らかな桃色の唇から唾液の糸がすっと伸びた。それを辿ると、俺の口へと繋がっている。
「俺……サーシャと……キス……してたの……?」
サーシャはキッと鋭く俺を睨んでいたが、その割に抵抗をしていなかった。そもそもさっきまで、舌と舌が絡み合っていたような……。
「こ、これはあくまでも契約よッ! キ、キスじゃあないわッ!」
「契約って……ああ! サーシャ……考え直してくれたのか?」
「そ、そうよ! わ、分かったら、そこから手をどけなさいッ! そ、そんなとこ、触っていいなんて言ってないんだからッ!」
「ん……手?」
――フニフニ。
右手を開閉すると、手の中に小さな肉まん状のものが握られていることに気付く。決して大きくは無い――だが確かな柔らかさを持ったそれは、いわゆるおっぱいであった。
「んあっ……ちょ、ちょっと、や、止めなさいッ! どけてって言っているでしょッ! ああんっ!」
顔を背けたサーシャの口から、色っぽい声が漏れる。
ふむ……サーシャの「ちっぱい」を触感により確認。それは何とも奥ゆかしく、甘酸っぱいロマンが一杯に詰まった、夢の入れ物であった。
「あ、サーシャ。指輪がさ……すげぇ黒光りしてる」
「え、ええぇ?」
草の上に広げたサーシャの左手人差し指に、黒々とした指輪が嵌っていた。それは先ほどまで、今にも消えそうな状態にあった契約の指輪だ。
指輪は俺がサーシャの胸を揉むたびに、漆黒の輝きを増していく。どうやら契約の対価はキスだけでなく、おっぱいを揉むことも含まれているのかもしれない。
「あ、ああッ! なによこれ! アンタが胸を揉むたびに――どうして……ああんっ!」
「多分だけどさ、最初に俺、再契約の条件としてサーシャ自身を望んだだろ」
「え、ええ、そうね。それがどうしたのよ?」
「だからさ、サーシャが俺の望むことをしてくれたら、指輪に魔力が溜まっていくんじゃねぇかな……」
「そ、それがキスすることや、胸を揉むことだっていうの? さ、最低だわ……」
「でもさ、これって再契約できたってことだろ?」
「そうよ。これでアンタは、わたしだけの暗黒騎士ってこと」
「そうか。こんなにいい報酬があるんじゃ……従属者として、お前の為に働くしかないよな」
言いながら、サーシャの胸を二度、三度と揉む。だがギロリと睨まれたので、一旦彼女から離れることにした。
「あ、あ、当たり前じゃないの! わ、わ、わたしにここまでさせたんだから、きっちり働いて貰うんだからねッ!」
サーシャは耳まで顔を真っ赤にして、元気よく立ち上がる。だけど彼女の表情が妙に色っぽくて、俺の股間がマッスルソルジャー化。立ち上がるとこんもりするので、片膝を付いて誤魔化した。
「あら、跪いてみせるなんて、いい心がけだわ。コクトー=ガイ!」
ちっぱいを逸らして居丈高に言い放つサーシャ様に、決して真実を語ることは出来ないのだった。
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