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「コホン……ちょっと待てよ。帰れることは嬉しいんだけど、お前は……――」
サーシャの提案を基本的には肯定しつつ、俺は左手を開いて前に出した。それから一呼吸おいて、ゆっくりと言葉を続ける。
「ここから一人でララオーバを目指すとして、今、魔力は殆ど無いんだろう? 敵や獣が出てきたら、お前、どうすんだよ?」
断崖の側には草地が広がっているが、一歩足を踏み入れれば山間の鬱蒼とした森だ。そこには熊や猪といった、人に危害を加えそうな動物だっているだろう。そんな場所で夜を迎えて少女が一人、一体どうするというのか。
しかし俺の心配を他所にサーシャは口の端を吊り上げ、いかにも嫌味な四天王という表情を作り薄く笑っていた。
「確かにわたし、勇者パーティーには苦戦したわ。だけどね、それはスチームブレードとかいう規格外の武器があったせい。
あんなものさえ無ければ、このわたし、ステリオン四天王にしてスクアード公爵、魔国軍元帥サーシャ=メロウが後れをとるなんて、あり得ないことなのよッ!」
人差し指を立て、厳かにサーシャが小さな胸を張る。ぺったんこではないが、ちっぱいの部類に入る大きさだった。
「また負け惜しみか……器も胸も小さいな」
思わず本音がポロリ。俺のジト目にサーシャの容赦ない目潰しが飛ぶ。だが俺は暗黒騎士。最弱四天王の突き如き、問題では無かった。
「――違うわよッ! くっ、避けるなッ!」
「……でもお前、四天王の中で最弱なんだろ? だから今回も負けたってことを学ばないと、次も同じ失敗をするぞ」
「そ、そりゃあ確かに、今回は負けたわよ。でもそれは敵が持ち出した新兵器のせいであって、わたしの軍団が壊滅したのは、指揮が悪かったわけでは――……」
「軍団を壊滅させる前に、彼我の戦力差に気付けよ。そもそも、戦略的撤退って言葉を知らねぇのか……」
「ぐぬぬ……わたしの辞書に撤退の二文字は無いのッ!」
「そうか。逃走の二文字があるわりに、珍しい辞書だな」
「あ、あ、あー言えばこう言う……! アンタなんかね、『了解』か『御意のままに』だけ言っていればいいのよ。どうせ平民以下の従属者なんだからッ! ばか、ばか、ばーか!」
「……お前な、自分でも大切な人を失ったって、悲しんでたばっかりじゃねぇか。また同じ失敗をして、さらに大切な人を失ったらどうすんだ?
いいか、失敗は仕方がねぇ。でもな、それを反省して次に活かすことを考えねぇヤツは、本物のばかだ。そもそも負ける戦いに、他人を巻き込むな。戦うなら絶対に勝てっつー話だろうが」
「な、なんで魔族の中でも大貴族のわたしが、アンタなんかに説教されなきゃいけないのよッ! もう、元の場所に送り帰すから、黙ってなさいッ!」
「……本当に俺を送り帰していいのか? 護衛も無く山の中で一人、お前は一晩過ごすのか? ここでお前が死んだら、屈辱に耐えてまで逃げた意味が、まったく無くなるんだぞ?」
「だ、大丈夫よ! とにかく、わたしは強いの! たとえ四天王の中で最弱だとしても大陸全土を見渡して、このわたしに傷を付けることの出来るニンゲンなんて少数なのよッ! だから何の心配も無いわッ!」
近場にあった草を千切り、俺に投げつけてくるサーシャ。
流石にイラっとしたので、眉を顰めた。そんなに自信があるなら、勝手にすればいいと思う。
「――ったく」
俺は一言サーシャに言うと、頭をガリガリと掻いて俯いた。彼女が、「俺と一緒にはいたくない」と言っているような気がして、少しハートブレイクだ。
そんな俺を見て、サーシャが草を投げつけるのを止めた。首を傾げ、不思議そうに眼を二度、瞬いている。ナニコレ、やっぱりサーシャはとてもカワイイ。
「ガイ――アンタもしかして、わたしの事を心配してくれているの?」
「あ!? もしかしなくても心配してるよッ!」
「嘘――アンタ、わたしのこと嫌いじゃないの? だって戦闘中、命令をぜんぜん聞かなかったし」
「あれは、お前が無茶なことばっかり言うからだろ」
「そんな理由?」
「ああ、そうだよ。もしお前が、そんなことを気にしてたんだったら――もういいから。ララオーバまで、俺が守ってやるから――……」
「そう――でも」
一瞬だけ目を伏せたサーシャが、左手の人差し指に嵌められた指輪へ視線を向ける。黒い指輪が嵌っていた。あっ……と察しの良い俺は赤く染まった空を見上げ、涙をじっと堪える。
所詮俺とサーシャは人間と魔族。結ばれぬ運命よ。まあ、それ以前に出会ったばかりだけど……。
ていうかサーシャは美少女だ。だったら、恋人がいても不思議じゃない。いやもう、むしろいて当然だ。
きっとサーシャが見つめている黒い指輪は、恋人から贈られたものだろう。
彼女はきっと今、恋人を想い、心の中で問うているのだ。
「あなた以外の人と、一夜を過ごしてもいいですか? ララオーバまで逃げる道中のことです」と。
もちろん、心の中の男が難色を示す。
「ダメだ、ダメダメ。サーシャたんは、身も心もボクのものぉ~~~」と。
俺は焦点の定まらない目を中空に漂わせ、震える声でサーシャに言った。
「そっか……そうだよな。恋人がいるのに、別の男と逃避行を共にするなんて、出来ねぇよな……」
「は? そんなもの、いないわよ。ただ――今日は一人でいたいだけ。それに――……」
サーシャが唇を尖らせ、ぷいっとそっぽを向く。その頬が僅かに朱色を帯びていた。カワイイ。
「はぁ――……だって」
物憂げな溜息。サーシャの長い睫毛の奥に、キラリと光るものが見える。ウツクシイ。
瞬間――先にある森の木々が風にざわめき、赤い木漏れ日が揺れた。
ああ、そうか。彼女は自らの悲しみを夜の帳に紛れ込ませ、めいっぱい泣きたいのだ。
だが俺はそんなサーシャに同情しつつも、何故か笑みが零れてしまう。ふふふ……サーシャ、彼氏いませーん!
俺氏、完全復活! 乾杯! 世界は我が手中にあり。プロージット!
「そっか。まあ――そうだよな……ふふ」
「あに笑ってんのよ?」
「え、あ、いやその何でもない」
「ならいいけど……とにかく、今日はありがとう。アンタのお陰で死なずに済んだわ。多分わたし、アンタのことは一生忘れないから」
「……大げさだな。危なくなったら、また何時でも呼べよ。俺、サーシャの従属者なんだろ?」
「えっ、そうだけど……本当に呼んでもいいの?」
「いいも何も、今回だってお前、俺のこと勝手に呼んだじゃねぇか」
「そうだけど、それは父様の遺産があったからだし……わたしがアンタと直接契約を結んでいるワケじゃないし……でも、また呼んでいいって言うなら、一つ教えて貰っていい?」
「あ? 俺に答えられることなら、何でも聞いてくれ」
「アンタに答えられなきゃ、他の誰にも答えられないわ。それはね、アンタと先代、つまりお父様との契約内容を教えて欲しいのよ。要するに……契約の対価が何だったのか、それを知りたいの」
「何、それ? 俺、サーシャのお父さんに会ったこと、一回もないんだけど? 何ならむしろ、ご挨拶に伺いたいんだけど……? お義父さん……」
「惚けないで、父はもう亡くなっているわ。だから聞けないんじゃない……」
「そ、それは……」
「とにかく、対価が分からなければわたし、アンタとの契約を延長が出来ないの」
「え……延長出来ないと、どうなるんだ?」
「アンタをあと一回しか呼べない。もしくは――アンタをここに留め続けていたら、強制的に戻されてしまうでしょうね。
ほら――もう、今にも契約が切れそうでしょ? 誓約の力を使ったワケでもないのに、この有様なの。だからわたし、アンタに嫌われてるって思っていたのよ」
そう言って左手を突き出すサーシャの人差し指には、薄っすらと透明になりかけた黒い指輪が嵌っていた。
――って、これが契約の媒介だったのかよ!