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淡い光に包まれたと思ったら、視界が一気に暗転した。ドンッと背中を打ち、目を閉じる。その後、気が付いたら俺は野原に寝転がっていた。
「――イ……ガイッ!」
鈴を転がしたような、澄んだ声で名前を呼ばれている。この声は間違いなく美少女のものだ。
今まで俺の人生で、美少女に起こして貰ったことが一度だってあっただろうか?
もちろん――ない。
だから俺は耳をヒク付かせて腑抜けた意識を呼び戻し、強引に覚醒。接着剤で徹底的にくっつけたような瞼を、引きちぎるようにして開く。
「ウォォォオオオッ……!」
だが、麗しい美少女の姿は見えない。夢だったかと半ば諦め、辺りを見回した。
「ここは……どこだ?」
夢を見ていたにしては、居る場所が不自然だった。
俺は半身を起こし、周囲をキョロキョロと確認。夕暮れ時の朱色に染まった空が見え、鳥が数羽、飛んでいた。
はて――自然に溢れたこんな場所が、我が家の近郊にあっただろうか?
「うーん」
「アンタねぇ! いつまで寝てんのよッ! 身体はしっかり回復させたんだから、すぐ目覚めなさいよねッ!」
寝惚け眼を手の甲で擦っていたら、頭上から凛とした愛らしい声が降ってきた。これこそまさに、先ほど俺の耳を擽った美少女の声である。
しかしながら、なんか思っていたのと違う。棘があるというか――詰問口調というか……。
「あ、そういえば俺……勇者と戦ったんだっけ……」
……ここでようやく、俺の思考が現実と連結した。視線を上に向けると、血のこびりついた銀の手甲もそのままに、腕組みをして「ガルル……」と唸る銀髪美少女の姿がそこにあり……。
「てことは、サーシャが魔術で回復してくれたのか?」
「そうよ! このわたしが従属者の為に魔術を使うなんて、よ、よ、世も末ね!」
言われてみれば多少身体が重いけれど、痛みの類はすっかりと消えていた。
「とりあえず、脱出は成功か」
「あったり前でしょ! わたしを誰だと思っているの! 魔王軍が誇る四天王が一人、サーシャ=メロウなのよッ! 逃げ出すくらい、造作も無いことなのだわッ!」
偉そうな態度の割に、言っていることは酷いサーシャ=メロウ。逃げ出すことが造作も無いなら、最初から逃げ出していて欲しかった。
そんなサーシャの強がりを耳にしつつ、立ち上がる。まだ、頭がクラクラした。額に手を当て頭を振ると、サーシャが心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。
「ねぇ、アンタ……まだどこか悪いの? 言いなさい、治療するわ。わたし、これでも従属者を大事にする方なのよ」
「た、単なる立ち眩みだ……問題ねェ」
上目遣いで俺の顔を見つめるサーシャの瞳は、ブルーサファイヤのような輝きを持っていた。普段見ない目の色に、俺は思わず目を逸らしてしまう。
正直、ドキドキした。まるで猫のように角度で色合いの変わる、空色の瞳。少し潤んでいたのは、もしかしたら俺が目覚める前、泣いていたからかも知れない。
「そう、ならいいけど……」
「そんなことより、あいつ等が追ってきたりとか、そういう心配はねェのかよ?」
「わたしを探そうと、手を打ってくるのは明白よ。ただ――これほど近くに居るとは考えていないでしょうね」
サーシャは俺の問いにやや表情を曇らせて、風に靡く髪を掻き上げている。左手の手甲は、いつの間にやら消えていた。
「転移して逃げたんだろ? なのに何で……」
「魔力が、そんなに残ってなかったの。仕方ないじゃない!」
「ああ、そっか。で、どんくらい近いんだよ?」
顎をしゃくり、サーシャが「付いてきなさい」という。その背中を追うと、切り立った断崖の上に出た。どうやら、ここは山の中だったらしい。
サーシャの横に立ち、崖下を一望した。
「——……アンタにも見えるでしょう、あの大きな建物が新領土総督府よ。わたし達は、あそこから転移したの」
眼下の一点を指差しながら、サーシャが言う。その声は怒りに震えながらも、憂いを帯びたものだった。
「新領土?」
「スクアードのことよ。つい二十年ほど前まで、ここはニンゲン達の領土だったから。それを父様が解放し、総督として治めることになったの。その時、同時にスクアード公爵の爵位も賜ったわ。
――その跡を去年ようやく継いだっていうのに……わたし……」
「…………」
つまり父が敵から奪った領土を、娘が失った――ということか。正直、何と言っていいか分からない。ともかく俺はサーシャの横顔から目を逸らし、眼下に広がる景色を眺望した。
ここはそれなりに標高が高いのだろう。薄い雲の下に、色鮮やかな街並みが広がっている。人口は数万といったところか。
しかし街は至る所で黒煙を上げており、戦争の爪痕が残っていた。これが勇者達による罪科であることは、余りにも明白だろう。特に街の中央付近にあるサーシャが指差した建物からは、今も赤黒い炎が吹き上がっている。
「わたし……何も守れなかったわ……みんな……死んでしまったの」
蒼い瞳に燃え盛る炎の赤色を映し、サーシャが震える声で言った。傷心、怒り、嘆き――彼女の声に含まれる感情が、どれを多分に含んでいるのかは分からない。
仮にサーシャの心情を理解出来たとして、今の彼女に気の利いた言葉を掛ける権利なんて、俺には無いだろう。だって俺は大切な人々を誰も失っていないし、そもそもこの世界の人間ではないのだから。
それでも何か、慰めになる言葉を掛けてやりたい。そう思い、空転する思考に合わせて目をさ迷わせていると、黒い一本の線が目には入った。その上を、煙を噴き上げ機関車が走っている。
「あれは……線路? こんな時なのに汽車が走っているのか?」
「ディオン軍だわ。ここは、もともとがニンゲン達の領土だったから、西方と線路が繋がっていたのよ。つい最近まで封鎖していたけれど、奴等はそれを復旧させて、続々と兵を送り込んでいるの」
「なるほどね。ってことは、今後も兵力が増強され続けてるってことか。ってことは、ここにも、いつ敵が来るか分かったモンじゃねぇな」
「――そういうことよ」
「だったら、もっと逃げるしかねぇけど……行く当てはあるのか?」
「ええ――まずは東、ララオーバを目指すわ。そこには一個師団が駐屯しているし、魔国の領土となって長いから、防衛体制も整っているの。
それに魔都との間に鉄道も通っているから、この敗戦がシンフォニア様に伝われば、援軍も送られて来るはずよ」
「そうか。そのララオーバってところへ行って、体制を立て直してから勇者と戦おうってんだな?」
「そうしたいのは山々だけど、わたしにララオーバ師団の指揮権なんて無いわ。スクアードの全軍を失った以上、一旦は魔都ベルムントに戻って、敗戦の責任を取らなきゃならないでしょうね。
だからわたしは、ララオーバから魔都――ベルムント行きの汽車に乗るってわけ」
「えっ……それって最悪の場合……お前……」
「……ああ、アンタが心配するようなことには、ならないと思うわ。だってわたし、四天王だもの。もっとも、一時的に閑職へ追われる程度のことは、覚悟しているけれどね」
「覚悟、か。そうは言っても――……」
「仕方が無いわ。わたしが、それを選んだのだから」
俺は慰めようとして開きかけた口を、再び閉じて。
吹き抜けた風を孕み、サーシャの髪がフワリと広がった。赤い夕陽に照らされて揺れる銀髪が、濃紺色の制服に包まれた彼女の背中を、もどかしそうに叩いている。
だけど――決意に満ちたサーシャの横顔は、あまりにも綺麗だった。
高く通った鼻筋はまるでギリシャの彫刻のごとく――長い睫毛と青い瞳は今や憂いを含んで艶めいている。だというのに、きつく引き結んだ桃色の唇が、悔しさで震えていた。
頼れる人も大切な人も、たくさん失ってしまったサーシャ。
その苦痛に必死で耐えるその姿を見て、思わず俺は「可愛い」「抱きしめたい」なんて下世話な感情を抱き……。
彼女の心情を思えば、俺の抱いた劣情は余りにも恥ずかしい。だけど、サーシャを見ていると妙に心臓の鼓動が高まってしまい。どうしたら、もっとサーシャと仲良くなれるかな――などと考える始末。
あっ……、でも考えてみれば俺、サーシャの従属者じゃねぇか。だったら、ララオーバまでの道中を護衛して、いろいろ話せばいいんじゃね?
という訳で早速、不純な動機と純粋な心配から生まれた名案を、サーシャに提案してみることにした。
「とにかくララオーバってとこに行けば、安全なんだな? だったらそこまで、俺が護衛を――」
途中まで言いかけた言葉を、振り向いたサーシャが遮って。
「とりあえず――今日のところはもう、わたし一人でいいわ。ご苦労様」
「へ? ご苦労様?」
「何よ、変な顔して。帰っていいって言ってるのに」
「え……帰れるの?」
俺は驚きのあまり、あんぐりと口を開けた。せっかく生まれた恋心が、開けた口からポワンと出て行ってしまったみたいだ。
そんな俺を見てサーシャは苦笑を浮かべ、頬を指で掻いている。
「あのね……召喚師が従属者を還せないって、ありえないから……」
そういう事なら、お言葉に甘えよう。
ちょっと冷静になれば、分かる事だ。俺のドキドキに、サーシャが応えてくれるワケが無い。だって四天王だぞ、四天王。よくわかんないけど、そのうえ公爵だ。
どうせ望みが無いのなら、日本に帰ってユーチューブでも見ている方がマシ。何より勉強だってしなきゃいけないしな。
……でも、何だか釈然としないなぁ。
新章です。
ようやくラブコメモードに入れそうな気がします。
よろしくお願いします。