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終末スコレー

作者: ころん

 一面が真っ白の、窓のない、閉鎖的な、絶望的な、夢も希望もない廊下を僕は一人で歩いている。聞こえるのはコツコツと鳴り響くゴム長靴の音だけで、蛍光灯、かは不明だが、真っ白い照明に追い出された僕の影が不気味に黒く地面を染めている。

 もし君に、まともな目がついているのなら。廊下を数メートル進むたび、左右の壁、足元ほどの高さに、ヘドロのような気味の悪い生物がへばりついているのを見つけるだろう。

 大きさはサッカーボールほどで、淡い灰色を纏ったダンゴムシのような外見。特徴的なのは全身を覆うぶよぶよの半透明膜と、その冗談みたいに肥大した体躯と、腹部から生えた左右四本ずつしかない足だ。出来損ないの粘土細工のようにも見えるこの生物は、施設内にどこからともなく現れて、当たり前のようにそこにいる。

 もし君が、人間の持つべき視覚器官を一切持っていないというのなら。せめて、この気味の悪い物体があげる、断末魔の叫びを聞いてくれ。

 僕は流れるような手つきで、右手に硬く握り締めていたモップの柄の部分を、壁に張り付いたそれに突き立てる。途端に、耳をつんざく鋭い悲鳴。命の潰える確かな手ごたえとともに、破れた半透明の皮膜から、灰色の液体が四方八方に飛散する。

 目の前でピクリとも動かなくなった汚物からモップを引き抜くと、ジュルリと気持ちの悪い音。支えのなくなった体が壁にそって力なく落ちて、地面を汚す。同時に姿を現すのは100V用コンセントだ。

 こいつらは電気を食べる。この建物のどこかにある発電施設。それが生み出した電力を狙って、どこからともなくやってくる。どこからかは知らない。とにかく醜く地面を這い蹲りながら、短い足を小刻みにうねらせてやってくる。それを殺して回るのが、この世界で僕に与えられた唯一の役割だ。

 数メートル進み、モップを突き立てて別のを殺す。再び数メートル進み、ゴム長靴のかかとで踏み殺す。殺す。ぶっ殺す。顔にかかった灰色の体液をぬぐう。ぬぐう。ぬぐう。

 くり返し。

 僕は僕に与えられた遂行すべき使命、役割、仕事、任務をテキパキと事務的にこなしていく。

 もし君が、僕に興味を持ってくれるなら。どうか僕の置かれた立場、この絶望的な状況を聞いてくれ。

 ここは地球だが、深刻な放射能汚染に晒されて、あるいは原因不明の伝染病の蔓延によって、生き残った人類はすでにこの星を脱出してしまった。数隻の世代宇宙船に乗って、それぞれ別々の方向へ、新天地を求めて飛び立ってしまった。僕は何かの手違いで、間違いで、このろくでもない地球上に取り残されてしまった哀れな生物で、宇宙最高レベルのひとりぼっちだ。

 この場所は国立先端科学研究所東京支部の二階で、最先端のセキュリティが施された建物には窓がない。地下階はなく、広大な敷地に五階建ての円形構造。実験時の事故に備え放射線が外部に漏れ出さないように念入りな対策を施されたこの施設が、逆に僕を外部の放射能汚染から隔離してくれている。不純物が混ざることを良しとしない施設全体がクリーン化技術により支えられていて、僕を原因不明の疫病から守ってくれている。

 これだけ整った環境を捨て去り、最先端の技術を結集させた世代宇宙船に乗り込み、人類は地球を脱出してしまった。どこか別の星へ旅立ってしまった。

 彼らは愚かで、救いようがない。

「メシア」

 背後から声がして、振り返る。白い髪、白い肌。色素の抜けた瞳がじっと僕のことを見つめている。それほど背が高くない僕の、肩にも届かないほどの小柄な少女。華奢な体は、触れただけで跡形もなく消え去ってしまいそうなほどで、その背中には、光り輝く二枚の翼がずっしりと生えている。

 残念なのは、彼女は人間ではないということだ。

「申し上げにくいのですが、人類は、地球を脱出などしていません」

 彼女と初めて出会ったのはたった数時間前。僕がこの場所で目覚めた時だ。薄暗い中に天井が見えて、翼を持った天使が、僕のことを見下ろしていた。

「あなたが最後の一人です」

 僕は、壁の汚物にモップの柄を突き立てる。懸命に天使から与えられた仕事をこなす。今の僕に必要なのは、くり返すこと。できるだけ頭の中を空っぽにしておくことだけだ。それ以外のことは知りたくない。僕以外の人類は、新天地に向けて、長い旅の最中だ。

「こちらへ」

 そう言って天使は歩き出す。僕は慌ててモップを壁に立て掛け、揺れる翼の後を追う。大きな通路から脇にそれ、数メートル進んだところで右に曲がり、左に曲がり、右に曲がる。次第に照明が少なくなり、気づくと薄暗い倉庫に入り込んでいて、そこに隠されるように設置された貨物搬送用エレベータのボタンを押しながら、彼女は言う。

「悪魔退治のご感想は?」

 答えようとするが、当然のことながら、唇がわずかに動くだけで声は出ない。空気はただ僕の喉を通り抜けるだけで、意味のある音にはならない。僕の声帯は死んでいる。

 だから、代わりに心の中で念じる。僕はいったい誰なんだろう。

「あなたはメシア。あのたくさんの悪魔から、この世界を救う存在です」

 間の抜けた鈴の音が鳴り、エレベータの到着を知らせる赤いランプが光る。彼女の翼が、真っ赤な血の色になる。光から追い出された彼女の顔が、底なしの黒に染め上がる。

 君に是非とも知っておいてほしいのは、僕はこれまでの記憶を完全に失っているということだ。名前も、年齢も、家族構成も、趣味趣向も、全部。

「ご不満?」

 軋んだ音とともに、貨物搬送用エレベータの扉が開く。そして、腹の奥を叩きつける地響きとともに、太陽の表面のような灼熱が顔を出す。焦げ臭い熱風が僕の頬を強引に撫で付け、強すぎる炎が僕の目を焼いて、他のものは何も見えない。

 腕で必死に顔を庇いながら、言う。

 救うべき存在がいない救世主に、意味はあるのかな。

「呼び方に希望があるのなら、そう呼びますが」

 彼女の声は、燃え盛る炎の轟音でほとんどかき消されている。人間なら誰しもがそうであるように、音がなければ、念じるだけでは、言葉の中身を理解することはできない。僕は焼けた目で必死に彼女の唇の動きを読み取り、言う。

 この虚無感はいつか消えると、楽観的になっていいのかな。

「ここを焼却炉にしました。悪魔の死骸はここへ捨ててください」

 天使は僕の方を見ずに、ボタンを押してエレベータの、焼却炉の扉を閉める。急速に元の静寂を取り戻した僕の耳が、ジンジンと痛み出す。目は光ですっかり焼けていて、目の前にいる天使の姿もまともに見えないほどの暗闇に包まれている。

 言わせてもらえるのなら。僕の見解では、エレベータは焼却炉になり得ない。本当だ。

「さぁ、戻って。満足するまであなたの役割をこなしてください」

 見えるのは、黒く塗りつぶされた天使の顔だけ。



――お風呂が沸きました。一階大浴場へお越しください。

 館内スピーカーから放送される天使の声を聞きながら、僕は廊下をゆっくりとモップ掛けしている。駆除した大量の亡骸を、透明なポリビニール袋につめながら、地面にへばり付いた体液を、濡らしたモップで念入りに取り除く。

――お風呂の入り方はご存知で?

 リノリウム、かは不明だが、やけに光沢のある床が靴底と擦れ合い、耳障りな甲高い音が響く。濡らしたモップをバケツに突き刺し、代わりに乾いたモップで、足元を入念に磨き上げる。

――返事をしてください。

 もし君が、清掃作業員を目指すなら。脇をしっかりと閉めて、ふり幅を一メートルほどに抑えるのがコツだ。折り返し地点では八の字を描くように動かして、取りこぼしを少なくするように心がける。大切なのは正しいフォーム、それと、美しさを追い求める強い意志。

――メシア?

 僕は廊下の先にあるトイレで、清掃用ユニフォームの、やけに肌に張り付くズボンを強引に引き摺り下ろし、便器に用を足そうと試みる。何か気が晴れないときは、トイレにこもるのが一番だ。便意の前では、僕の悩みなどちっぽけだ。

――あー、あー。聞こえてます?

 用を足し終わり、壁に設置された洗浄レバーを踏みつける。が、反応はない。もう一度やっても、水は流れない。

 足にまとわり付いたズボンとパンツをたくし上げながら、人間の持つべき発声器官を持たぬ僕は、出ない声で、心の声で叫ぶ。

 助けてくれ。

 途端に目の前に光が溢れ、男子トイレの個室に、天使が出現する。神の与えたもうた奇跡。周囲にほのかなシナモンの香りが漂う。翼が壁にぶつかって折れ、抜け落ちた白い羽が宙を舞う。彼女は右手を振り上げ、そうして僕の汚物は跡形もなく浄化される。

「館内放送は」彼女は不満げに、けれど人間離れした透き通った眼差しで僕のほうをじっと睨んで、言う。「聞こえていましたか? 無視しないでください」

 助かった、ありがとう。

「やはり直接呼びに来ないとだめですね? メシア」

 頭を下げる僕の手を握り、彼女、天使はトイレの個室から僕を連れ出す。焼却炉でない、普通のエレベータに乗って一階に下り、廊下の途中、微妙な位置に設置されたボックス型シャワールームの前にやってくる。僕の見解では、このシャワールームは実験時に危険な薬品を浴びたとき、すぐに洗い流すための非常用設備だ。

「ようこそ、大浴場へ」彼女はもったいぶった動作で折りたたみ式ドアを開けながら、左手を胸に当ててホテルマンのように丁寧なお辞儀をする。「当店のご利用、誠にありがとうございます」

 中には、外見からは想像もできないほど大きな更衣室があって、背の高い鼠色のロッカーがずらりと並んでいる。その奥には木製の縁にすりガラスがはめこまれた風勢のある引き戸が設けられて、中からぼんやりとしたオレンジ色の光が照っている。

 鏡には、見覚えのない中年男性のふてぶてしい姿が写っている。

「悪魔退治ご苦労様です、メシア。どうぞ、ごゆっくり」

 ああ。僕は頷く。そして、服をすべて脱ぎ捨て全裸になる。僕は僕であることを忘れて、ゆっくりと風呂に浸かりながら、頭の中を空っぽにしたいと心から願う。何かを考え、何かに悩むなら、永遠に救われることはないのだから。救われたいなら、すべてを無に帰せばいい。

 勢いよく戸を開けて、その一番奥に見える、湯気の立つ大きな浴槽目がけて颯爽と駆け走る。脂肪の踊る体を懸命に振りながら、一メートルほど手前にきたところで跳躍し、頭から湯に真っ逆さまに飛び込む。

 激しくむせながら大きく口を開けると、息を切らしていたおかげで、すぐに自分の意思とは無関係に大量の水が喉に流れ込む。気管が萎縮し、貫くような鋭い痛みに襲われながら、しかし僕は背徳的な恍惚感に浸っている。飛び込む間際、浴槽の淵にしたたかに打ち付けた脛の痛みも忘れるくらいに。

 浮力に逆らって、さらに頭を深く沈める。脂肪よ消えろと念じる。

 悪い夢からは早く醒めるべきだ。天使などというふざけた存在に、誰もいないこの世界に、これ以上耐えるだけの価値があるとは思えない。死への恐怖はきっと、振り払うべき足かせに過ぎない。

 僕の右腕が不意に生暖かい何かに捕らえられ、次の瞬間には、身体が強引に湯船から引き上げられている。世界はボヤけていて、方向感覚を持たぬ僕は、ひんやりとした背中の感触で自分が仰向けに寝かされていることを知る。天使が、いつのまにかじっとこちらを見下ろしている。

「入浴の仕方は、ご存知で?」

 天使が右手を振り上げ、気がつくと僕の苦しさは嘘のように消えていて、それどころか、全身心地よい多幸感に包まれている。セロトニンが、エンドルフィンが、ドーパミンが、僕の脳内麻薬たちが、死の淵に立った僕のことを精一杯気持ち良くしてくれる。僕は幸せを感じ、そして、引きつった笑みを浮かべずにはいられない。幸せで、幸せすぎて、他の何もかもがどうでもよく思えてくる。これが人生の最高地点なのだと痛感する。

「湯船の前にまずはシャワーを浴びるんです」

 こちらをつまらなそうに見つめながら、天使は壁に設置されたシャワーヘッドを手に取り、倒れる僕の方へ乱暴に向ける。熱すぎるシャワーを浴びても、少しも気にならない。

「ずいぶんと気持ちが良さそうですね」

 快楽に溺れる醜態。それが天使の透き通った瞳に映し出されていることに、僕はさらなる興奮を覚える。ひょっとしたら、天使さえいてくれれば、僕は生きてゆけるのかもしれない。自分で自分のことを少しも解らなくなったって、天使はずっと見守っていてくれるのかもしれない。

「さあ、もういいでしょう」

 天使が左手をあげると、僕は瞬く間に現実へと引き戻される。思考は冷静さを取り戻し、次に隠れていた大きな不安感が僕の脳みそを覆い尽くす。当然のことながら、事態は何一つとして解決していないという事実に愕然とする。

 天使は僕にバスチェアに腰掛けるように命令して、膝を折り、両手に持ったタオルでゴシゴシと背中をこする。僕はこそばゆい感覚に耐えるため、そこで初めてあたりを見回した。

 黒。黒。黒。白。天井のまばらな照明が、あちこちに暗い影を落としている。連なるように設置された蛇口の並び。幾重にも重ねられた風呂桶。一人には広すぎる浴槽。そのどれもが静寂の中で、ぼんやりとした暗闇に耐えている。静かすぎるのは、湯の循環が止まっているからかもしれない。人類が、僕一人だけだからかもしれない。

 僕の主張を信じてくれるなら、僕の思考はすべてが完全に僕のものだ。決して天使にコントロールされているわけではない。何もかもがただの操り人形というわけではない。

「さあ、背中は終わりました。あとは自分で出来ますね、メシア?」

 その言葉を残して、彼女は光とともにどこかへ消え去る。

 同時に僕の心臓は爆発する。急激な孤独に、いてもたってもいられなくなる。僕は慌てて頭と体を洗い、タオルを固く絞り、湯船に十秒だけ浸かってからすぐに天使を呼びつける。洗い終わったから、風呂はもういい。いますぐそばに来てくれ。頭がおかしくなりそうだ。

 気がつくと、僕はシャワールームの扉の前に立っていて、すぐ隣でひんやりとした天使の手が僕の手を握っている。その冷たさに、不思議な安らぎを感じる。濡れていたはずの体や髪はすっかり乾いていて、脱ぎ散らかした服が足元に転がっていて、そして僕は全裸だ。生まれたままの姿。慌てて服をかき集め、着込む。

「さて、次は就寝です」

 一瞬の後に、僕の意識は遠のいている。全身の筋肉が弛緩し、足が緩み、天と地が入れ替わる。咄嗟のことで声は出ない。脳みその鉛直落下。全身を強く地面に打ち付ける衝撃。ただ、痛みは感じない。視界が黒くぼやけ始める。

「良い夢を」

 頭上から天使の声が聞こえる。

 きっと今、あの忌々しい手が上がっているに違いない。



 茹だるような蒸し暑さと、頭のおかしくなりそうな蝉の声が鳴り響く中、僧侶のつまらなそうな読経がどこか別の世界の言葉のように感じて、僕は路地裏に迷い込んでしまった孤独感に浸っている。すると、となりに座っていた姉が僕の肩を小突く。目の前にはいつのまにか白い煙を吐く焼香の台が置かれていて、姉はあなたの番だと小声で僕に言っている。

 焼香の意味は、僕にはわからない。細かい作法も知らないので適当につまんで済ませる。僧侶は言った。焼香は遺族の気持ちを落ち着かせるためのものだと。終わった人は、指で整えて綺麗な状態で次の人へ渡してください。いいですか、みなさん。思いやりの心をもってください。僧侶は言った。お経は身内の死に直面した人間への説法だと。ご縁があって巡り合ったのですから、普段考えないようなこの世の真理を問いかけてもらえる貴重な時間を無駄にしないでください。

 あっ、死んでいる。もう動かない。

 棺桶の中に眠る母を見て、ただそう感じた。眠っているようだが、もう思考していない。そのことが一目でわかった。この死化粧が美しく覆い隠している頭の中はすでにからっぽで、その中に詰まっていた本当の意味で美しかったもの、僕や家族とのたくさんの思い出や、掛け値ないほど大切だった感情などはすべて跡形もなく失われてしまっていた。不思議と涙は流れない。だから、僕は世の中の悲しみとは一切無縁な人間なのだな、と思った。

 葬儀が終わり、遺族全員がバスに乗せられ、山道の険しい坂道を登る。僕は棺桶を霊柩車に運ぶのを手伝わされたのと、昨晩から一睡もしていない疲労で今すぐ帰りたい気分だった。帰って、柔らかいベッドの温もりに包まれて、安心して眠りたい。苦しいのは好きじゃない。だけど僕の意思に反して、バスはどんどん人里離れた山奥に入って行く。皆とはぐれたら遭難して死んでしまいそうなほど深い森。終点は、そんな中に場違いに建つ、白い四角い建物で、火葬場のはずなのに、煙突があるようには思えない。

 先に到着していた霊柩車から、施設の従業員が母の入った棺桶を運んで行くのが見えた。僕たちはしばらく玄関のような場所で待たされた後、天井の高い部屋に通される。大理石の壁から突き出た台の上には、蓋の開いた棺桶が置いてあって、中には母の死体以外に、葬儀のときに入れた花束や、母のお気に入りだったポーチ、僕と姉が書いた手紙などが入っている。僧侶が再びお経を読み、もう一度焼香をして、係員が棺桶を閉ざし、壁の中の焼却炉に母を仕舞い込む。焼き終わるのを二時間ほど別室で待って、次にその場所を訪れたときには、すでに母の形はなく、台の上には白い骨だけが残っている。

 骨壷に入れるため、立派な骨だといいながら乱暴に砕いていく係員。その光景を見て、ああ、この世界にいた母という人間は、完全にこの世から失われてしまったのだなと感じた。



「怖い夢でも見たようですね?」

 重い瞼を開けると、薄暗い部屋の中、天使の澄んだ瞳が僕を見下ろしている。

 ここがどこだかわからない。いや、ここは、国立先端科学研究所東京支部の建物だった。僕は清掃作業員で、そして、ひとりぼっちのメシアだった。

 天使の美しい瞳と、すべてを包み込んでくれそうな純白の翼が目の前にある。そのどれもが、怖くて不安な僕に、穏やかな安心感を与えてくれた。まるでこの世界で初めて目を覚ました時のようだ。違うのは、あの時のように硬い床の上ではなくて、僕は今、足元まで綺麗に整えられたベッドの上にいるということ。

「頃合いです。行きましょうか」

 天使はやわらかく微笑む。どこへ? 僕は問おうとしたが、そこで、手足が少しも動かせないことに気づく。まるで本当に人形になってしまったかのように、首から下が動かない。

 天使はそんな僕を一瞥してから、ストッパーペダルを蹴り上げ、僕を乗せたままのベッドを押して、ゆっくりと部屋を出る。

「あなたの体は限界が近いようですが、怖がる必要はありません」

 人類が滅亡した静けさの中で、僕たちは迷路のような廊下を右に曲がり、左に曲がり、右に曲がる。こうして運ばれていると、まるで天使と一つの生き物になったみたいだ。カラカラと車輪の転がる音だけが廊下に響く。僕は仰向けのまま、華奢な体でベッドを押す天使の整った目鼻立ちをぼんやりと見つめている。

 壁に設置された100V用コンセントの上には、今でもあの見にくくておぞましい虫たちが蠢いているのかもしれない。動かない体では、確認することも、綺麗に掃除することもできない。今の僕が、救世主としての責務を果たすことは難しい。

 天井の幅がだんだんと狭くなり、照明が減って、いつの間にか僕たちは薄暗い倉庫に入り込んでいる。天使の手により焼却炉と化した貨物搬送用エレベータがある部屋だ。大量の亡骸を効率よく処理するための火葬場。

 天使がスイッチを押すと、赤いランプが点き、扉が開く。中は見慣れた普通のエレベータで、どこにも灼熱の炎は見当たらない。

「ここからは、メシアの声を聞かせてください」

 天使が右手をあげると、僕の喉から勝手に声が溢れ出す。

「あああ……」

 恐ろしく若々しい少年の声だ。風呂場でみた、あの醜く太った中年男性の声じゃない。この声が偽物なのか、この身体が偽物なのか、僕に判別することは難しい。

 エレベータを最上階で降りて、薬品の香りと金属臭の漂う真っ直ぐな廊下をひたすらに進む。両脇はガラス張りになっていて、中には人の身長ほどの銀色のカプセルが無数に並んでいる。数は数百、いや、数千はあるかもしれない。

「夢を見ていたんだ」少年のような声で、僕は言う。「なつかしさのある夢だった。母親が死んで、葬式をあげているときの夢。ねえ、ひょっとすると、あれは僕の記憶なのかな」

 どうでしょう、というように、天使は首を傾げる。

「ここは、人体を冷凍保存する場所です」

 深刻な病気に侵されて、それでも死を受け入れられなかった人間がここに入り、未来の医療技術にすべてを託した。けれど時が経ち、蘇生する側だった人間がすべて死んでしまうと、後には行くあてを失った氷の人形たちだけが残された。

「あなたの記憶が確かでないのも、声が出ないのも、仕方のないことかもしれません」

 天使は左右を見渡して、何かを見つけたのか、歩みを止める。ガラス張りの部屋の奥の方で、一つのカプセルだけが空いていた。おそらくは僕が入っていた場所なのだろう。天使はそれを名残惜しげに見つめている。

「人類が滅んでから、もっとも長く命が保存されていたのがこの設備です。全電力が停止し、すべての冷凍個体が駄目になる寸前に、私は最後に残った一人に干渉して、強制的に目覚めさせました。それがあなたです」

 つまりこういうことですよ。天使が左手をあげる。途端、建物のすべての照明は消えて、あたりは真っ暗になる。そして、なぜだかうまく呼吸することができない。ひょっとしたら、大気はすでに人類を絶滅させるのに十分なほど汚染されているのかもしれない。電気はすでに止まっていて、それを食べる害虫はすべて幻覚で、僕は天使の言うような、世界を救うメシアではないのかもしれない。

 息苦しさに意識を失いそうになり、そして、次の瞬間には何もかもが元通りになっている。

 再び見えるようになった天使の顔に向かって、言う。

「なぜ僕が生かされているのか教えてくれ。どうして他の人間を見殺しにしたのかも」

「誰かに必要とされないなら」天使はとても冷静に、淡々と答える。「それはどこにもいないのと同じです。存在する意味がない。でもこれは、私一人の力でどうにかできる問題ではないのです。あなたは私の、最後の悪あがきでした」

 ベッドから仰向けに見上げる天使の姿は、まるで年相応の少女のような、不安定で頼りのない印象を僕に与えた。背中にずっしりと生えた二本の翼は、いつになく小さく折りたたまれている。

「さあ着きましたよ。目的地、最終地点です」

 足元で、金属の軋む音とともに扉が開いた。

 階段と、その脇にはスロープが見える。天使は細い腕からは想像もできないほどの力で、ベッドごとスロープを上っていく。出口を抜けて視界が一気に開けると、そこは夜の屋上で、頭上には無限に広がる空。

「メシア。私と一緒に、永遠の時を生きてみる気はありませんか?」

 すがるような声の響きだ。静寂の中、微かな月明かりが僕たち二人を照らしている。

「私の翼の片方をあなたに埋め込めば、あなたは永遠の命を手に入れることができます。きっと、そう悪くない日々を過ごせると思いますよ。家族になれるかはわかりませんが、試してみる価値はあります」

 役割を失った孤独な天使。その苦しみを救ってあげられるのはもう、この世界で唯一、僕だけなのかもしれない。だけど僕は僕の選択を、天使に告げる。僕は早く楽になりたい、もう耐えられない、と。

「そうですか」天使はすぐに元の笑顔を取り戻し、言う。「付き合わせてしまいました。あなたの魂は、私が責任を持って天へと送り届けましょう」

 天使の整った顔がすぐそばにあった。お互いの鼓動すら聞こえてしまいそうなほどの距離感で、僕たちは最後のお別れをする。カプセルの中でただ失われるはずだった僕の命を救い出してくれたことには感謝している。そう告げるが、天使はただ張り付いた笑みを浮かべるばかりだ。やがて天使は僕のベッドを動かし、屋上フェンスの破れているところの前で止める。

 フェンスの向こう側の風景は、あらゆるものが灰色の堆積物で覆われているようだった。その下にはきっと、数多の人類の遺産が、静かに眠っているのだろう。もはや誰も、その価値に気づくことはない。

「さようなら」

 背後で天使の声がして、僕の体は浮遊感に包まれる。ベッドごと、屋上から落ちていく。

 僕は選択を誤っただろうか。僕が彼女の手をとれば、何かが変わったかもしれない。もっと僕が強ければ、もっと積極的に行動していれば、何もかもがうまくいった可能性はある。

 自由落下の中、足の隙間から、翼を広げて夜空を舞う天使の姿が見えた。二枚の翼をはためかせ、行くあてを失った鳥のように、ゆっくりと大空を旋回している。

 役目を終えた彼女は、これからどこへ行き、何を見るのだろうか? 彼女には無限の時間が残されている。永遠の自由と、永遠の孤独。それらはきっと、終わりのない、絶望的な体罰だ。

 頭上に地面が近づく。眼前で、蒸し暑い夏の葬式場で行き場を失っている少年と、ぐるぐると羽ばたく天使の姿が重なった。どちらも絶望したように肩をすぼめて、ひとりぼっちに耐えている。まるでその身を襲う不条理が、仕方のないことだと諦めているようだ。

 不意に、その背中を突き飛ばして、笑ってやりたいと心から願う。だって、すべてを失ったように思えるこの世界でも、君は眩しいくらいに無邪気で、勝手気ままに僕を起こして、そうしてそばにいてくれた。君は、それをただの悪あがきだといったけれど、僕はそうは思わない。どれだけ大切なものを奪われたって、残る確かなものはあるはずだ。今この場で僕がそのことを証明して、君の冷え切った瞳に刻みつけて、笑い飛ばしてやれたなら。もう他に望むものなど何もないと思った。

「やっぱり前言撤回だ、僕を助けてくれ!」

 地面に触れる寸前で、僕の身体は翼を広げた彼女に抱きかかえられる。彼女は涙を振るって、心底嬉しそうな笑顔で、風を切る音の中でも聞こえるように、声を荒げて、叫ぶ。

「メシア!」

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