【8】暗翳と二人の夜と(1)
夢だと分かっているから平気だった。
若い男女はモノクロの椿を背景に抱擁を交わし、涙ながらに愛を語った。一瞥して過ぎた先では、故郷の旧友が子育てに追われている。帝都で知り合った女性は男子と並び立って高等教育に進み、学問を修めんと机に向かう。
あたかも無声映画のようだ。先ほど鑑賞したばかりの男女の恋物語から始まって、見知った顔が次々と登場する無音の映画。どれも他愛のない日常のシーンは、フィルムを切り貼りしたようにせわしなく変わる。
活動弁士はいないが、色の付着した鮮明な映像は現実的で生々しく、その生きた輝きでもって私の目を刺した。皆の歩んでいく背中に何を考えるわけでもない。私はただ目が眩まぬよう瞼を半ば下げて、ぼんやりと皆の様子を眺めている。
ないはずの、彼女たちの笑い声が聴こえる。竜を探さなくてはいけない。夢だと分かっているのだ。早く目を醒まして、元気な様子を見せて、彼を安心させなければ、……。
瞼を無理やり開ければ、簡素な電球の吊り下がった板張りの天井が目に入った。何度か瞬きをして鈍い頭を覚醒に持っていく。周囲の様子を探ろうと視界を巡らせると、部屋の唯一の出口に腰を下ろしている華鳥朱の姿を見つけた。
「ああ、お沙耶ちゃん。起きた?」
「竜は……」
「竜治くんは厠だよ。声掛ければすぐ返ってくるけど」
開けっ放しの襖に背を寄りかけて、美男は廊下の方を見やる。彼にしては低く穏やかな声だった。鼻筋の真っ直ぐ伸びた綺麗な横顔には、今は憂いの色が差している。
「寝てるお沙耶ちゃんに何かするわけないのに、厠から見張られてなきゃいけないのは心外ではあるね。……まぁ、自業自得か」
そう言って華鳥がはー、と深い溜息を吐くと、廊下側に白い息が散った。
寝た姿勢も落ち着かないので、私はゆっくりと布団から上半身を起こした。部屋側は暖かく、布団から少し離れたところに火鉢がある。わずかに開いた格子窓からの日差しがそこにちょうど重なって、舞い上がる灰を明るく透かした。ちりちりと光る様は寝起きの目には優しくない。
「竜治くーん? お沙耶ちゃん、目を覚ましたよ」
彼が比較的大きな声量で私の目覚めを知らせると、すぐに手洗いの音がした。次いで廊下を駆ける音が近付いてくる。
「大丈夫ですか、沙耶子さん」
「……竜こそ大丈夫か」
姿を現した竜は、蒼白と言っていいほど顔色が悪かった。心配して上目遣いに覗くと、竜の視線は気まずそうに漂って、やがて清涼な風を取り入れているだろう窓に留まる。「俺は平気です」と彼は私の目を見ずに呟き、窓際に半身もたれるようにして腰を落ち着けた。
やや間を空けて、華鳥が話の口を切った。
「それで、今をときめく華鳥朱の頬を腫らした賠償の件だけどね」
そう言われて、改めて彼の顔を見る。横顔だと隠れて気付かなかったが、彼の右頬には赤く痛々しい跡があり、私はあっと息を呑んだ。
自分がやろうと思った平手打ちは意識を失う最中でも決まったのだ。しかし加減ができないからこうも腫れてしまって、もしかすると当たり所も悪かったのかもしれない。考えているうちに申し訳なくなり、私は謝るために布団から出ようとした。華鳥は慌てて制した。
「冗談だよ。嫌がる真似をしてすみませんでした」
「いや、こちらこそそんなになるとは……ごめんなさい」
畳の上に正座を組み、潔く丁寧に腰を折る彼にかえって気が引けた。結局布団から抜け出して謝り返したが、それはそれで収拾がつかない空気になってしまい、私は別の話題を振ってこの件を終わらせることにした。
「それよりも……っていいのか分からないけど。何かあったんだろう、あの状況」
意識がはっきりしてくるにつれ、失神する直前の出来事が思い出された。硝子の割れるような短く鋭い破裂音と通行人の悲鳴が耳の奥に残り、行き場をなくしたように疼いている。
「私たちのいた近くの建物……和製の映画製作会社なんだけどね、そこに火炎瓶が投げ込まれたらしいよ」
火炎瓶。物騒な言葉に眉をひそめていると、華鳥は「続けていいかい」と気遣うように訊いた。竜は既に話を聞いているのか、驚く気配はない。私が頷くと、華鳥は膝を崩し、寛ぐ姿勢になって続ける。
「火炎瓶なんて学生運動を傍目で見たとき以来だったな。まぁ、それはいいんだけどね、投げ込まれた理由がもう噂になっているみたいでさ。さっき階下の子が聞いて来てくれたんだけど、私の俳優転向の話が関係しているらしい」
「被害に遭った製作会社が華鳥朱を俳優に起用したがっているというのは、映画マニアの間では有名な話なんです」
風に当たって気分が戻ってきたようだ。竜が説明に補足をしてくれる中、話題の活動弁士はふん、と鼻で笑った。
「誘いを貰っているのは真のことだけどね、当人はまだ何も言及していない。早とちりも甚だしいけれど、そもそも『俳優になるな』だなんて、どこの誰が私に意見しているのかな」
高飛車に言い放った彼は部屋の隅に視線を流した。度の過ぎたファンは最早ファンではない。塵芥を見るような眼だった。
「無声映画も永遠じゃない。欧米でもその動きがあるように、きっと近いうち日本でもトーキー……有声映画が主流になる。そうすれば活動弁士は用済みさ。――ああ、別に憂いているわけじゃないからそんな目をしなくていいよ。良いものは良い。私はそう思うから」
私の顔を見た彼は表情を変えて、紳士然に微笑んだ。
「まぁ小事件の背景はともかくね。火炎瓶が破裂したとき、あの人通りだろう、凄い騒ぎになったんだ。すぐにあの場を離れなければいけなかった。それで、てっきり竜治くんが君を運ぶと思ってたんだけど……その」
「俺が頼んで運んでもらったんです、安全で休めるところに」
華鳥が今言葉に詰まったのは竜の自尊心を配慮してだろうが、竜は自ら打ち明けた。私を見る夫の顔は済まなそうにするどころか、自らの犯した罪を告白するようで、こちらが居た堪れなくなった。
「あまりにおかしいでしょう。もう俺のことを話さないわけにはいかなくて……すみません」
「謝る必要なんてないだろ。ありがとう、竜」
葛藤もあったはずだ。竜の不調は自己嫌悪からきていることに気付くと、心が締め付けられた。
ちょうど数日前も、デートに誘う前もこういう思いをした――だから。竜が負い目を感じる必要はない。私は平気だと、そう伝えたい気持ちが先走ってしまったのだ。