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【7】幕開け、浅草デート(3)

「じゃあやっぱり沙耶子さん、あの切符本人から貰ったんですか」

「うん。本屋で偶然一緒になったんだよ」


 映画鑑賞の後。昼日中の目抜き通りを往きながら、竜は面白くなさそうにすんっと口をすぼめた。混雑を避けて最後に活動写真館を出た私たちだったが、上映開始から今に至るまで、彼は延々と拗ね続けている。


 映画、及び口演自体は見事なものだった。私も竜と一緒に幾度となく活動写真を観てきたが、あのような惹き込まれ方をかつて感じたことはなかった。


 活動弁士たる華鳥朱そのものも魅力だ。巧みな話術、十色の声音、抒情的な表情の変化――。しかしながら最も印象的だったのは、魅せたのはあくまで映画であり、そのことを当人も心得ていたことだった。主役は誰なのか、彼ははっきりと分別していた。

 誰もが褒めそやす理由がよく分かる。けして顔だけで人気を集めているのではない。


 だが、それを一緒に体感したとしても竜は気に食わないらしい。私より竜の方が映画好きで、鑑賞のいろはを知っている。だというのに、華鳥朱の株が自身の中で上がっていくほど、彼にはかえって面白くないようだった。


「もしかして、私じゃなくて自分が切符を貰いたかった……?」

「何を見当違いなこと言ってるんですか。沙耶子さんがああいう男に口説かれたのが嫌だったんですよ」

「別に口説かれたわけじゃないよ」


 断じて違う。その逆で本当は失礼を働かれたのだが、それは竜に伝えていない。


「そりゃあ沙耶子さんはお美しいですし、声を掛けられるのも当然だと思います。けれど、相手が。銀幕の俳優より男前って噂は確かにありましたけどね、まさか――」


 気持ちを押し出すように竜が手振りを交えて弁じていると、どこからか、威風に満ちた声が響いた。


「ふふん、それは光栄だな。でもそういう言葉は君でなくて、隣の女の子からお聞きしたい」


 声の出所を見つけて、目を丸くした。私たちの斜め前方には話題の本人が、江戸桜の幹に寄りかかって得意気な笑みでこちらを見据えていたのだ。


「来てくれて感謝するよ。今日も麗しいモガさんだね」


 ゆるい網目模様の木陰から抜け出した彼は薄化粧はそのままだったが、格好は壇上のとは違っていた。つい先ほどまで見上げていた黒天鵞絨(ビロード)のスーツはどこにもなく、今は和服になっている。随分な早着替えだ。


 こちらへ歩み寄る美男を警戒しながら、竜が私に渋顔を寄せた。


「沙耶子さん。あの――」

「へぇ、沙耶子ちゃんっていうの。綺麗な名前。お沙耶ちゃんって呼んでもいい?」


 竜の言葉を遮って、すいっと距離を縮めた華鳥朱は笑みを深くする。二人の青年に立ち並ばれると、何故だか不思議な気分に襲われた。

 私が何も答えられないでいると、彼はむしろ竜の方を値踏むように見てから、飄々と言ってのけた。


「この間は悪かったね。お沙耶ちゃんが男を知らなそうだなんて言って」


 ぴくり、と竜の眉目が動く。桜の木立が風に揺れ、葉の失った枝々がざわめいた。


こいつ(・・・)が相手かは知らないけどさ、もう結婚しちゃってるならお友達としてお付き合いしようよ」


 どうやら穏やかに済ますつもりはないらしい。華鳥朱は、私に対してはあくまで紳士然に、竜に対しては不遜な態度を取った。竜が負けじと声を張った。


「断固拒否! 沙耶子さん、すみません。こいつ(・・・)の異名、鶺鴒の君なんです」

「セキレイ? といえば益鳥しか思い浮かばないんだが、そんなわけないよな。とんだ迷惑者だし」


 鶺鴒といえば田んぼの害虫を捕食してくれるありがたい鳥だが、話の流れとしてあり得ない。というよりそれ以前の問題で、非常識な上に竜に対して失礼すぎる。夫を侮られて怒るのは当然のことで、私はあえて厳しい口調で『迷惑者』と呼んだ。


 しかし上手く聞こえなかったのだろうか、都合の悪い部分を華麗に流して、迷惑者は上機嫌にかぶりを振った。


「益鳥だなんて嬉しいな。でもそうだね、『恋教へ鳥』はある意味、益鳥ともいえるよね」


 彼は自然な動作でこちらに手を伸ばすと、私の右手を取って自身の手の平に乗せる。上演後の肌は密かに熱を持っていた。同一の熱に浮かされたように美男は囁いた。


「日本神話において鶺鴒はね。イザナギとイザナミに愛の通わし方を教えた鳥なんだよ……私のお友達になって。イザナミ」


 あっと悲鳴に近い声を上げたのは、竜だ。

 手の甲に落とされた唇の柔らかな感触、湿っぽさ、生温かさ。つんっとぶつかる美しい鼻筋の先。

 初めての経験だった。口付けを受けた場所からさあっと血の気が引いていく。


 波の引くように血潮は体のどこかへ消え、背筋が凍るまでに時間はかからなかった。こうまでされたなら、たとえ一打浴びせても文句は言うまい。力を込めて、空いた左手を振り上げた、そのときだった。


 つんざいたのは破裂音。

 一気に膨らんだ音は耳の底を強く打って、脳を揺すった。

 黒い煙が立ち昇って、通りの端から侵食していく。暗闇の中、ちろりと舌を出した橙の火。私を握る男の手。


 ――ああ、具合が悪いかもしれない。


「沙耶子さんっ!」


 とうに過ぎ去ったはずだった、いつかの恐怖がむくりと頭をもたげた。刹那、視界が白黒に明滅し、竜の声は急速に遠のいていった。

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