【6】幕開け、浅草デート(2)
螺旋階段の壁に飾られた美人画を眺めながら十二階をのんびりと降りた私たちは、花屋敷の近くの洋食屋に入った。
コートや帽子を預けた後は入り口すぐの席に通され、私はハヤシライスのセットを、竜はビフテキを注文して、いくらか待つ。昼時で混み合い始めた店内では給士の少年少女が目まぐるしく動いている。白いナプキンやフリルエプロンが、黒い給士服に清潔さを与えている。
店は木造二階建てで、二階に蓄音機を置いているのだろう、輸入のジャズ音楽が夏の海波のように店内を動かした。大きく備え付いた窓ではステンドグラスの薔薇が冴えた光を放ち、端に掛けられた私の白い毛皮のコート――竜からの贈り物はその赤や薄黄、緑色の淡く透明な輝きをつぶさに映した。
竜はよくこういった店を好む。向かい合った顔を見ると、彼もまた花の光彩に染まったコートを眺めながら、小さく微笑んでいた。
外来文化の薫る昼食でお腹を満たし、向かった先は活動写真館だった。今日のデートのメイン行事だ。
尖塔を擁した白く円い洋風屋根、爽やかな若葉色の外壁。あちこちに活動写真館が建つ中でも、ここは特にモダンで、大きく立派な造りをしている。
張り出されたポスターの前を横切りながら、竜が朗らかな口調で教えてくれた。
「沙耶子さんが貰った切符、最近ここで封切られたばかりの映画ですよ」
油彩絵を印刷したポスターは四枚並んでいて、全てが上映中の映画のものだ。すべて見覚えがある。うち一つのタイトルは、貰った切符に印字されたものと一致していた。
赤い椿の花を背景に、洋装の女が一人立つ。その左下の枠内には同じ女性と青年がいて、女性は青年の腕の中にあった。構図からして、若い男女の恋愛映画と見受けられた。
私の青年はその写実的なポスターを一瞥して、話を続ける。
「そのときに登壇したのも華鳥朱。というか、最近はほとんど彼が弁士をやってるみたいですね。ここの活動写真館は」
「人がすごいな」
「華鳥朱、やたら人気があるんですよ。恋愛映画が得意らしいので、特に女子に」
月刊の映画雑誌を購読する竜はこの辺りに詳しい。仕事先の話題作りにも役立てている様子を見ると、素直にスマートだと感じる。
活動写真館の近くには軒先まで席を設けた飲食店もあって、席に着いたいくつかの集団は昼酒に洒落込んでいた。その盛り上がり様はほとんど宴と言っても差し支えない。
距離があるわけではないが、花屋敷を含めた活動写真館のある界隈は十二階近辺よりも賑わっている。接触に気を付けなければならないほど目抜き通りには人がいた。世間の評判通り、今の浅草行楽の中心はここにあると思われた。
せっかくならば良い席で観たい。そろそろ入場しようかと二人で建物の入り口へ歩いていくと、そこで見知った二人に遭遇した。
「成美! どこに行ったのかしらん!」
「お嬢様、お嬢様。自分はここにおります」
甲高い声を張り上げるのはうちの隣、子吉川家の花江さん。彼女の元に寄らんと人混みをかき分けるのは居候の守谷さんだ。
「勝手に離れないで下さいまし! 女性を一人にするなんてあり得なくてよ。本当に、鶺鴒の君を見習ったらどうなの!」
綺麗に揃った小さく白い歯を剥いて、花江さんは今しがた姿を見せた守谷さんに詰め寄った。守谷さんはたじろぎながら、終始頭を低くして口をはくはくさせている。
竜から聞いた話だと、彼は子吉川家の遠い親戚にあたる家の出で、都内に住む小説家に習うため上京したという。子吉川家には居候として世話になっている分、日々の雑用仕事を請け負っているのではなかったか。
普段からこうなら少し居た堪れないな、と冷や冷やしながら二人を眺めていると、こちらに気付いた花江さんが快活な声を上げた。
「まあ、ごきげんよう。鈴生様ご夫妻も朱を見に?」
「偶然この映画の切符をいただいたから、観に来たんです」
「それは幸運なことでしたわね。彼の登壇する映画はとても人気があるから、休日なんて入れないこともありましてよ」
私の返事に花江さんは自慢げに笑った。追っかけなのか面識があるのか分からないが、人気活動弁士を名前で呼ぶとは恐れ入る。
数日前の記憶だと守谷さんもを華鳥朱を推していたはずだ。ちらりと視線をやると、彼は花江さんの背後で縮こまりながら、困った笑みで相槌を打った。
二人揃って好きな活動弁士を観に来たのだろう――そう考えると仲が良いとも取れそうだ――私は甘く解釈した。
知り合いの近くで鑑賞するのも気を遣うという理由から、場内に入ると二組は半ば暗黙の了解で離れて席を取った。
白のスーツに赤い蝶ネクタイが派手派手しい、陽気なもぎりに始まって、活動写真館の至るところには非日常の趣があった。透かし切り絵の入ったパンフレット、豪華なシャンデリア、大きな舞台にとっぷりと掛かった深青色の帳が観客の期待感を煽った。後ろを振り返ると、出口付近には大勢の立ち見客がひしめいている。
隣に座る竜が、待ち遠しげに懐中時計を取り出す。指の長い男らしい手に収まるそれはパチッと可愛らしい音で鳴き、開演まで間もなくだと教えてくれた。
――じきに無機質なブザー音が会場の空気を震わせた。
夢の帳が開くとともに、観客が色めき出す。色めいたというのも、声の主はみな女性だったから。活動弁士が姿を現すと、その抑えきれなかった嬌声の数は増す。
私はというと、彼女らとは異なる類の声が漏れた。
「……ああっ」
驚きのような、納得のような。熱い拍手と黄色い声援で迎えられた人物は、古書店街で遭遇した青年。私に切符をくれたのは、華鳥朱その人だったのだ。