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【3】花の都に住む人は(3)

 家に到着する頃には夕方になっていた。

 遠く、路面電車の鐘の鳴るのを聴きながら自宅近くの角を曲がると、夕日と逆光になった二つの人影があった。


「あ、沙耶子さーん。おかえりなさい」


 そのすらりとした方。細っこい体躯の重心をステッキに預けた竜がひらひらと右手を振った。暮れなずむ道の上、ステッキの長く伸びた影を茎に、しなやかな五指の花が咲いた。


「こんばんは、奥方様」

「こんばんは」


 玄関前、竜と立ち話をしていたらしい隣家の居候――守谷(もりや)さんが恭しく頭を下げるので、私も応える。歳は確か私よりも三つほど上。付き合いも短くはないのだが、いつまで経っても彼の態度は仰々しい。


 女性の中では長身に入る私と目線の高さが同じで、頬骨が浮く程度に顔は痩せている。(さか)しそうな顔立ちなのだがそれでいて腰が低いから、応対するこちらが恐縮してしまう。


 竜と違って私は親密に話したことはなく、続く言葉も見つからない。互いにご飯時だろう、それとなく竜の方を見やった。


「遅くなってすまない。すぐ夕飯作るから」

「いえいえ。今晩は出前でもいいですよ」


 するとすぐさま、守谷さんが言った。


「ああ。それなら自分も一緒に頼んでいいですか。代金はもちろん払いますので」


 訊けば、守谷さんが世話になっている隣家、子吉川家の主人らは今晩出払っているらしい。「自分以外いないから、元々出前か外食で済ませるつもりだった」と話す彼の頼みを断る理由もなかった。


「何にしましょう」

「近くに頼むなら蕎麦かうどんか。定食屋もあるな」

「じゃあ、蕎麦でもいいですか。昼が重かったのでさっぱりしたのがいいです」


 そんな竜の希望で、蕎麦屋に出前を取ることになった。三人が注文を決めると、守谷さんが気を利かせて近くの自働電話へと駆けて行ってくれる。確かにあの蕎麦屋なら電話機を置いていたし、ちょうどよかった。


 ちなみに、鈴生屋帝都分店は固定の商売場所を持っているわけではなく、小売りの際は市の一角を利用している。よって固定電話を持つ必要はこれまでなかったのだが、顧客数も増えてきたし、玉利様のようないわゆる富裕層のお客もいるのだから、そろそろ持ってもいいのかもしれない。


 もっとも、いずれは必要になると言っていたのは竜だった。本家では私たちの上京と同時期に電話を置いた。客に無償で貸し出すことで売り上げを伸ばしていると言っていたが、本家からすればそれはきっとささやかな金額だ。実際は町での心証をよくするためと、なにより私たちのためだったと想像している。

 本家とのやり取りが電話中心であるように、物事には度々俊敏性が求められる。どんな理由にしたって持って損はない。



 やや待って、守谷さんが帰ってきた。配達まで時間はかからないそうだが外で待つのも格好付かないため、うちの玄関に入って待つことにした。お茶を出すと言うと、守谷さんは大袈裟に首を横に振った。


「そういえば、どこに出掛けてたんですか」


 私は板敷きの廊下に、二人は上がり框に腰を落ち着けると、竜が適当な話題を持ち出した。


「小川町の古書店街だよ。本も買ったんだが、変なおまけが付いてきたんだ、そういえば」

「おや。華鳥(かちょう)(あかり)のではないですか」


 手製の布袋から本を残して切符だけを二人に見せると、守谷さんが身を乗り出して声を大きくする。インクによるものだろうか、黒くくすんだ手で彼が指し示したのは、映画の題でなく活動弁士(※)の名の方だった。


「人気ですけど、まだ行ったことありませんね」

「地元だと、美琴さんが追っかけてたらしいな」


 彼女が働く美容院には、今でも華鳥朱が仕事したという映画のポスターが至る場所に貼られている。


「行った方が良いですよ。今のうち」


 切符の印字に視線を落としたまま、守谷さんは薄く笑った。その顔には何かを惜しむような哀愁がある。


「彼は良い。どうせ語りきれないから端折りますが、世の活動弁士の中では彼が一番です」


 ――ほどなくして、蕎麦屋の息子さんが顔を見せた。「毎度ありがとうございます!」挨拶の元気がよい、清々しい子だ。

 木製のおかもちの中から出されたのは湯気の立ったかけ蕎麦の椀が三つ。中学校の生徒でもある息子さんはちゃきちゃきとそれらを廊下に置くと、代金を受け取って帰っていった。


 折角こうなったのだから、食べるところまで一緒にどうか。竜が申し出ると、守谷さんは手を前にかざして、にこやかに言った。


「新婚のご夫妻の間に入るのもうまくないでしょう」

「新婚って……もう三年にもなるんだけどな」

「奥方様。夫婦は子どもが生まれるまで新婚ともいいますよ。……なんて、子どもはもとより結婚の予定すらない自分が言うことではありませんね」


 丁寧な返答に足されたのは、くっく、と自嘲を含ませた笑いだった。


「では奥方様、一緒に出前を取っていただきありがとうございました。竜治くんもおやすみ」


 守谷さんは自分の椀だけ取り上げると、至極恭しいお辞儀をして身を翻した。彼が玄関戸を開けると冬の風が吹き抜け、暗い夜道が覗いた。いつの間にか、日はすっかり沈んでいたようだ。


「食べようか。せっかくの蕎麦が伸びてしまうぞ」

「……あ。そうですね」


 守谷さんがいなくなった後、座ったまま動かない竜にそっと気を配ると、彼は焦点の合わない目で力なく笑った。


 下手な慰めはしない方がよい。それでも、廊下を付いてくる彼があまりにも心地悪そうで、手の平は萎んでしまっていて、だから私は口を開いた。


「他意はないんだから、気にしなければいいんだよ」


 これくらいのこと、いつだって言われるのだから。

 子どもの話題なんて日常にありふれている。何でもない、何でもないからと、これは胸中で呟いた。

 頭を撫でてやれない分、この日の蕎麦はいつもより美味しそうに啜った。

【補足】

※活動弁士とは、無声映画の上映中に状況説明をしたり台詞を入れたりと、それぞれのセンスや力量でもって語りを付ける職業の人です。人気弁士となればその集客力は凄まじく、映画館同士による引き抜き合戦が行われていたとのことです。有声映画であるトーキーが普及するまでは花形職業とされていました。

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