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【20】青鳥さえずる(2)

「俺のこと、怖くありませんか」

「怖かったら一緒にいないよ」


 広縁に投げ出していたズボンやその他、部屋に到着してすぐに脱いだ背広を衣類掛けに直して、竜が帰ってきた。首を回すと、部屋の隅に隠していた私のスーツもなくなっている。


 白花色の寝巻きをざっくりと羽織った彼の手には青海波模様の紺の帯と、私の分の寝巻きがあった。大きさは知らないが色合わせは同じで、揃いのものだ。


 肩から布団を被って畳に落ち着いている私の近くにそれを置いて、竜もまた腰を下ろした。それから襟合わせを直し、気持ち前を隠すようにすると、彼は凪いだ目付きを私に向けた。


「俺は俺自身を怖がっているけれど、沙耶子さんが怖くないなら……いいのかな」

「いいんだよ。竜の好きなようにしてくれたら。本当に嫌だったら、拒む前に言うからさ」


 『ノクチルカ』を出た時間も、宿に着いた時間も見ていない。だからどのくらいああしていたのかは計算できないが、短くないのは確かだった。

 今、掛け時計の短針は天辺を越え、部屋の中も外も、深夜の静寧に覆われている。


「きっと俺は傲慢なんです。自分が何かすることで女性を傷付けてしまうと思ってる。極端だって頭ではわかっているのに、心身が付いていかないんですよね」

「うん」


 だから、傷付かないくらい強いところを竜に見せて、安心させたいと思っていたのだ。

 そんな私意を知ってか知らでか、竜は「いえ」と首を振った。


「沙耶子さんが思ってる以上に傲慢です。それなのに、沙耶子さんを支えたいとも、甘えて欲しいとも考えるんですから」


 彼は自分でも困ったと言いたげに眉根を下げると、薄く笑った。黒く澄んだ瞳はずっと、ずっと私を捉えている。


「俺、こんなだから、強気な女性ばっかり好きな奴とか思ってませんか。俺が好きなのは沙耶子さんですよ。俺に甘えてくれる沙耶子さんも好き」

「私……私は、竜に弱音を吐いてはいけないんじゃないかと思ってた。幸せだから。ちゃんと幸せだって、足りないものなんてないって伝えたかった」

「伝わってますよ。だから俺はこうしていられるんです」


 やっとの思いで吐露した、吐く息にも近い掠れた言葉を、彼は優しい眼差しで包むようにして受け取った。

 多分、私が感じていた以上に竜は成長していて、夫になっていたのだろう。元々根っから子どもだなんて感じていなかったし、弱い人間ではなかったけれど。


 竜が背にする、広縁の先の景色に薄く白光が滲んだ。雲が流れ、月が覗いたのかもしれない。


「俺に問題があるからなのは承知の上、なんですけれど。弱音や愚痴を吐いたから幸せが損なわれるなんて思ってないです。むしろ受け止めさせて下さい。それくらいの器量は、あるつもりなので」


 そう言うと、竜はそろりと立ち上がった。私の背後に回って、羽毛布団を掴んで掛け直した。

 頭から臀部にかけてすっぽりと、柔らかい重みが私を覆う。一糸まとわない胸側と背中との温度差で、ほんのりと肌が粟立つ。振り返らずに向こうの中庭を眺めていると、背後で竜が腰を下ろす気配がした。


 冬にしては湿り気を含んだ空気。

 小さく息を吸い込んだとき、外にちらと白いものが舞った。


「ね、沙耶子さん。たった今、俺に背を預けてくれませんか。言葉通りのお願いです」

「え――」

「多分、大丈夫なので」


 夜の帳に粉雪が重なっていく。

 喉が震え、落ち着いたはずの火照りがぶり返し、心臓はとくとくと駆け足を始めた。このまま背もたれたら、今の不可解な変調を気付かれてしまうのではないか。


 気付いてもらえるのだろうか。

 竜への想いがもたらす変調に。






「布団越しでごめんなさい。お姿が見えるとやっぱり怖いから」


 布団越しだって、人の感触はわかる。そこにある彼の形、ところどころの肢体の堅さ、柔らかさ。わずかな体動。

 背中いっぱいで受け止めているつもりだったが、実際は竜の両脚が私の体を挟んでいて、私は彼の腕の中で、背を丸めて縮こまっていた。


「いや、いいんだ。ありがとう。……っ」


 最近泣き過ぎだ、と思いながら涙が止まらなかった。鼻をすすって泣く姿を見られるのは恥ずかしいから、やはりこれでよかったのかもしれない。


 空から降る雪はぼやけ、一層明るくなった硝子の向こうは光っているかのようだった。周りの障子と等しくなって、もう見る必要もないのだと視線を下げた。

 落ちる涙の行き場はない。畳んでいる両膝に顎をつけると、水滴はしとどに膝を濡らし、じきに脚を垂れていった。


「結婚して上京して、何もかも変わっていきますけれど。それでも、どうあっても愛せるって心で唱えたら、少し解けた気分になって」

「……変わるとか、変わらないとか、言うけどな。触れようが、触れまいが、私はもう相当おかしくされてるよ、竜に」


 人生が狂ったと言い張ったっていい。今の私は、昔の自分では想像できない日常を過ごしている。生活だけでなく、感じていること、考えていることだって。


「竜のおかげで、こんなになってしまったけれど。どんな私だって、竜は好きでいてくれてるだろ。だから、大丈夫だよ」

「……はい」


 乱れた呼吸の中、懸命に言葉を紡ぐと、肩にぽすんと何かが置かれた。距離ができたように竜の声がくぐもったが、本当はむしろ近付いている。彼の頭はすぐそこにある。


 唇を私の耳元に寄せてから、竜が囁いた。


「ね、沙耶子さん。さっきの言葉もう一回言って」


 布団に顔を埋めているから、いつもより低く、重たい声になって聞こえた。小さく身じろぐと、彼の体勢は思いのほか頑丈で、動かせる場所が少ないことに気付いた。

 くすぐったいような甘い束縛を感じながら、私は訊き返した。


「大丈夫だよ?」

「その前」

「私のこと好きでいてくれてる……」

「ううん、もう一つ前の。俺のおかげでこんなになっちゃった……って」


 下心が透けた声色に、くっ付いていた体が離れ、布団の端を持ち上げようとする気配。絶対に外れていないだろう覗きの予感に、怒りと呆れが立ちのぼった。


「お前……っ! 人が真面目に話してる時に!」


 くしゃくしゃの泣き顔で振り向こうとすると、はは、と温かい笑い声が聞こえて、布団の上からもう一度抱き締められた。先ほどより思い切りがよく、もう身じろぎもできない。胸が詰まってしまって、言葉すら出なくなった。


 この感触を与えてくれるのは、間違いなく。

 私は目をつむってしなだれるように、彼に体重を預けた。たくましく広げられる腕に、もう少し甘えることにした。

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