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【2】花の都に住む人は(2)

 満ち満ちる古書の匂いを吸い込みながら、路地を往く。紙やインクの変質した独特の芳香は、時間をかけなければそうはならないもの。私からすると非日常に類される匂いで、それ故に心が踊る。


 うず高く積もった本は店舗から溢れ、軒先を超えて歩道までせり出していた。晴天とはいえ、大っぴらに外に出せるのは店を北側に構えているから。本には大敵となる強い日差しが当たらない。


 初めて訪れた小川町界隈には、多くの青年たちがうろついていた。大体が近くにある大学の学生だろう。スタンドカラーの白シャツに着物、袴と合わせた風体は帝都(こちら)に来てからよく目にしていた。すれ違う者みな、意慾のある、賢そうな顔だ。


 その中に身を置いていると頭が冴えるようで、爽快で気持ちが良い。専門書のどれ一つだって満足に読めそうもないのに、ここに(みなぎ)る知性は空気を伝って、私に夢を見せてくれる。


「お金を貯めてそのうち一冊、自分のために買ってみたいな」


 独りごちた言葉は古書店街の賑わいに吸い込まれていった。


 今日は日曜だが、竜治は午後から仕事に出向いている。相手は玉利様。紳士録に名を連ねる、玉利家の長子だ。

 飲食業界を含めいくつも事業を抱えた玉利様は常に忙しく、平日ではゆっくりと時間が使えないという。だから「君とは顔を合わせたいから休日に」という上客の要望の通り、竜が土曜か日曜に、直に取引に行っていた。


 竜がいない、よって今。私が古書店街に来たのは理由があって、あえての一人だった。


「ここか。ようやく見つけた」


 古書店街の大通りから一本逸れて、小径をしばし進んだところ。目立たない場所にあるこじんまりとした店舗だが、ここも本屋らしい。

 地図を改めて確認する。小さな洋紙に青味の強いインクで描かれた緻密な案内図に、これを書いてくれた人――故郷で町医者をしている水橋先生を思い出す。


『洋書の品揃えが良いんだよ。専門書だけじゃなくて物語もあるから面白いよー』


 あの人らしくゆるく囁かれたその言葉の通り、店先の硝子戸には『洋書専門』と書かれた貼り紙があった。外から見た店内は薄暗いが、奥側がほのかに赤く色付いていて、一見すると怪しげな印象を受ける。


「ごめんください」


 そろそろと硝子戸を引いて声をかけるも、返事はない。水を打ったように静まり返っている店内だったが、店主用らしい机にはステンドグラスのランプが光っている。ということは、やっていないことはないのだろう。せっかく来たのだし品見させてもらいたい、私はそう思って石床の店内に足を踏み入れた。



「……よく考えれば分かっただろうに、参ったな」


 初めて訪れた店で戸惑いはあった。だが逆に言えば人がいないから、気後れなく物色できる、はずだった。

 勇んで本棚に向き合ったものの、英語はまるきりの素人だ。教書の背表紙は分かる、日本語だから。だがそれ以外から選ぶとなると、アルファベットをようやく読めるくらいの私では難しいではないか。


 当然だが英書体も様々だ。見慣れぬ文字記号でいっぱいの頭に、店主を待つか出直すか、いくつか選択肢が浮かんだときだった。

 硝子戸が思い切りよく開け放たれた。


「やあやあ御機嫌よう……と、失礼! 主人はまた店を放っぽり出しているのかい」


 まるで登壇するかのようだった。引き戸の擦れる音よりもさらに大きく声を張ったのは、私と同世代らしい男。長着に黒の外套を羽織り、カンカン帽子にステッキと小道具を揃えている。竜のお陰で分かるが、流行的ファッションだ。


「あの徘徊癖にも困ったものだね」


 よくよく通る声。店内の隅々まで聞こえただろう明朗快活なそれに、思わず男の顔を注視した。女好きのしそうな華やかさを備えている。


「洋書が欲しいんだ?」


 その顔がにっかりと笑った。ためらいなく綻ぶ笑顔には既視感があった。私は目を逸らせず、はぁ、とそのままに頷いた。


「いいねいいね! これからは女性が益々躍進する時代だからね!」


 こちらの鈍い反応などお構いなしに、嬉々とした調子でカラコロ下駄が鳴る。そのまま傍まで歩み寄った男は紳士風に、軽く頭をもたげて私の目を覗いた。


「何の本だろう。一緒に探してあげよう、素敵なモガさん」

「あ、いや。特に決まってなくて……できれば教本でなくて、物語がいいんですが。新書の」


 既視感の理由を探しながら、促されるように助け舟に乗った。男は店内の配置を熟知しているらしく、軽やかに外套をなびかせて本棚に詰まった背表紙を眺める。顎に手を添えながら探し物をする様子は絵になる、というよりは自分が絵になることを知っていて、そう振る舞っているかのようだ。


「ふーむ……確かにこの店は新書も多いからね……英語の習得中に嗜めるとなると、これかな」


 じきに見せられたのは、装丁のしっかりとした、書体が平易で読みやすそうな一冊だった。「難しくない恋愛小説だよ」と付け加えるあたり、内容も知っているのだろう。


「出会いの記念に贈るとしよう」

「いや。頂けません。夫へなので」


 言った通りで、一人で訪れたのは竜への贈り物だったからだ。英語を勉強中の彼に、まさに今日着ている洋服のお返しのつもりだった。

 私が即座に答えると、相手は驚きを隠そうともせずに目を瞬かせた。


「え、結婚してたんだ。それは意外だなぁ」


 ――君、男の人知らなそうだもの。


 そんな言葉と共に、名も知らない男の顔が正面に迫った。気位の高そうな、すっと伸びた鼻梁が私の眼前を横切ると、髪に隠れた耳朶を探るように男の首が捻られる。

 こちらこそ驚いて一歩下がると、脹脛(ふくらはぎ)が本棚にぶつかった。身体を反らすと背後には本の壁がある。

 胸が触れそうなほどに近い。逃げ場を失って、狼狽える中。やがて相手の唇に言葉か吐息のいずれかが込められたのを知覚し、全身に緊張を走らせた、と同時だった。


「片桐」


 掠れた呼び掛けと共に響いたのは、硝子戸の鋭く閉まる音。


「人の店でやめてもらえないか」

「それなら留守が多いのを改めたらどうかな、主人」


 男が避け、すっと視界が開けた。自然と目がいった出入り口に立っていたのは、長身の老爺。嗄れ声でピシャリと叱りつけたのは彼らしい。


 解き放たれた安堵感に、息を深く吐き出した。

 この片桐と呼ばれた男、制止がなければどうしていただろう。胸の前に掲げた手のやり場がなくなって、繕うように耳隠しを整える。


「主人。このモガさんが一冊欲しいそうだよ」


 終始変わらない機嫌で喋る片桐という男の態度は何もなかったようで、その甘やかな雰囲気にはやはり既視感がある。どうにも調子が狂う。改めて差し出された一冊を私が受け取ると、


「贈り物を贈るわけにはいくまい」


 と綺麗な眉を下げて、これもまた紳士風に微笑まれた。


「内容の面白さは保証するよ。あとはこれは失礼のお詫び。良かったら二人でどうぞ」


 失礼の自覚はあったのだな、と手元を見た。ステンドグラスの茜色に照らされる本に、そっと後から添えられたのは、いつの間に取り出していたのか二枚の切符(チケット)だった。

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