【19】青鳥さえずる(1)
竜に連れられて入った宿はノクチルカからほど近い場所にあったものの、先ほどの騒ぎは無論、世俗からも隔絶されているかのように落ち着いていた。
大きな高級旅館というよりは、貴人がお忍びで訪れていそうな、隠れ家風な雰囲気がある。高い板塀に囲われて建つ個人宿は前庭が広くとられていて、ここだけ見れば繁華街沿いにあるとは思えない。
石灯籠に灯る明かりが、私たちの足元と脇の青竹群をほのかに照らしていた。常緑樹の庭木が寄り添う軒下をくぐると、宿の格式高さが一層顕著になった。
遅い時間に着いたにもかかわらず、案内は女将直々。通された部屋は、続き間が三つ、広縁が二面もある立派なもの。全て、玉利様の名前のお陰だ。
『俺の名前を出せば大丈夫。それでも心配ならこれを見せなさい』
玉利様からそう言われたという竜が受け取ったのは、玉利望個人の名前の入った万年筆。結果的に見せる必要はなかったようだが、竜治がおずおずとそれを取り出すと、妙齢の女将は承知したといった顔で微笑んだ。
元々玉利様の予約があったかどうかは知らないが、石炭ストーブによって部屋は既に暖まっていた。
着いて早々、竜は乱暴に背広を脱いで、畳の上に放り捨てた。洋服を粗雑に扱う竜なんて初めてだ。驚いて見ていると、蝶ネクタイも同様に投げやった彼が、深い溜息をついた。
「どうして朱也と一緒だったんですか 」
責めるような声音と表情に、私は言葉が出なかった。
「犯人が捕まっていなかったの、沙耶子さんだって知ってたでしょう。軽率にあいつの誘いに乗ったから、事件に巻き込まれたんじゃないですか」
竜は苛立った手付きで、白シャツのボタンを一つ、二つと外していく。途中で気付いたらしく、両肩のサスペンダーをぐいと払い、腰に垂らすと、ズボンの裾が畳にくしゃりと落ちた。
「……ごめん。でも竜に会いたいって言った私を連れてきてくれたのは」
「知ってますよ! あいつがお膳立てしてくれたんでしょう。――沙耶子さんを、その格好に仕立てて!」
びくりと体が震えた。
竜の背後には一枚鏡のついた化粧台が置かれていて、そこに映るのは白シャツを羽織った彼の大きくまっさらな背中と、見慣れない自分だった。
必要にかられて変身した姿だが、竜治の妻としての私とは違う。
私は自分を包む、男物の背広の前ボタンに指をかけた。竜の言動をただの嫉妬と受け流すほど、彼の性格に無理解でもなかったから。
「……すみません。本当は分かってるんです、沙耶子さんも、朱也も悪くないって。俺のこれはつまらない嫉妬です」
無言で衣服を脱いでいく私を視界に入れないようにして、竜は呟いた。私も竜から距離を取り、彼の方を見ずに背広やズボンを部屋の隅に追いやった。本当なら掛けておくべきだったが、竜でない人のそれらを普段通り丁重に扱う勇気は持てなかった。
畳んだスーツの上に翡翠のループタイを置き、そこに脱ぎたてのシャツを落とすと、先ほどまでのひと時を閉じ込めたようだ。
色々な感情が綯い交ぜになって、整理が追いつかない。明日の朝まで寝かしておけば、少しは落ち着くのだろうか。
自ら露わにした肌は寒さでなく緊張で震えていた。私を眺めているときよりも、同室で私から目を逸らし、何かを考えている竜の雰囲気は私の全身をちくちくと刺した。
左手で太腿を、右手で逆の二の腕をさする。さらしは結局巻かれなかったから、洋物の下着を上下に身に付けただけの姿だった。
色のない脱衣の後、静かに竜が言った。
「沙耶子さんが会いに来てくれて嬉しいのに、やっぱり悔しいんです。思い詰めさせたのは他でもない俺なのに、わがまま言って、ごめんなさい」
「今回のことは私も軽率だったと思う。竜のことも考えないで、勝手に悪かった。倶楽部でのことも……駅のホームでのことも」
心弱い自分に哀しくなった。絞り出した声は張り詰めた十畳間の宙をたゆたって、壁にぶつかる前に消えた。
「やり直し、しましょうか」
「……え」
やり直すって、どこから。
はっと顔を上げて竜を見やると、彼はシャツをはだけさせたまま、ズボンの裾を擦るようにして畳を移っていく。
「今やりましょう」
引き戸に手を掛け、竜が広縁に出た。広縁と部屋の仕切りには障子の他に硝子が使われている部分があって、竜はその前に立つと、光を透かして私を待つ。
硝子の向こうにある控え目な笑みに、竜が指したのはホームの一幕のやり直しだとようやく気付いた。
安心と不安が入り混じる。強引な形のまま残るのは確かに嫌だ。しかしあれだけ戸惑って、怯えていたのに、大丈夫なのだろうか。もしうまくいかなかったら、また互いに傷付くのではないだろうか。
それでも、頭の中では嫌な光景すら思い描きながらも、私の足は従順に引き戸へと向かっていた。竜の勇気を大事にしたかったのと、誘うように薄く開かれた彼の唇は、やはり魅力的だったのだ。
彼は私を促すように、硝子の一点を人指し指で弾いた。長くしなやかな指から突き出た節が、私の鼻先ほどの高さでコツコツ、と高く澄んだ音を鳴らす。
戸の下部は枠と同じく木製で、海の波打つ彫刻が施されている。視線を上げると、欄間には雲と鷹。空と海を継ぐように障子や硝子が張られている。
私はその硝子に、おそるおそる唇をつけた。冷たい、と意識する前に、瞼ごしに落ちる影が濃くなって、無音で私を覆った。感触はなかったが、目を開けるとすぐ目の前に竜の顔があった。
口を少し離すと、間近の竜もまた真剣な表情で私を見つめた。
「大丈夫……?」
「大丈夫ですよ。もっとさせて下さい」
彼は優しく睫毛を揺らして、再び口付けを落とす。
二人の吐息を交わしたところは白い曇りをつくっていたが、じきに重ねるものが唇や吐息だけでなくなると、その一帯は扇情的に濡れそぼった。
本当のそれを知らない男女の行いだったが、私はその中でも全身に回る陶酔というものを確かに感じていた。
鼓動が早まり、熱い血が巡り、頭の芯から指先まで、痺れるような甘美に満たされる。
春情を滲ませて、竜が濡れた唇を動かした。
「沙耶子さん。体も、押し付けてくれませんか」
「……恥ずかしいよ」
そうは言いながらわかっていた。この言葉が出た時点で、逃げ道なんてない。
そのことを私より心得ている竜は、何も答えない。ただとろけるような笑みを浮かべて、私に乞うだけだ。
私は背筋を伸ばし、半開きになった戸の縁を片手で掴んだ。そうして板を固定してから、胸から上を硝子戸に預けると、ぎし、と戸が軋んだ。
「もっと押し付けられます?」
甘ったるい声が吐き出される口に潜んでいた、綺麗な舌が。
硝子にぴったり付けた私の唇の端、頬、首筋、そこから下を丁寧に這っていく。
荒れのない美しい指の先が、胸の先端や、きっと彼の好きなところを、しっとりと撫でていく。
「ね、沙耶子さんも触ってくれませんか」
視覚で引き起こされる昂ぶりと羞恥で、体も心もおかしくなりそうだった。
私はそうっと、硝子越しの竜に手を伸ばした。
「もっと下……もう少し」
硝子の熱の伝導がどうこうなんて、わからない。
彼が熱いのか、私が火照っているのか。とても判断がつく頭ではなく、与えられる熱感が波のように押し寄せて、私の意識を溶かしていった。
やがて、自分でも触っていいか、と竜は訊いた。
「なんで、訊くんだよ」
「沙耶子さんも一緒にしましょう、ね」
いつの間にか、互いの下着は床に落ちていた。
彼のおねだりが私の体を甘やかす。
呼吸を弾ませ、腰をよじらせ、四肢をばたつかせ。
海に落ちた鳥のさえずりに、私もまた溺れていった。