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【18】夜光虫倶楽部(5)

 生温かい視線が混じった周囲をよそに、守谷さんが続けた。


「憧れなんだよ、華鳥朱は。俺は貴方をモデルにした小説をもう何本も書いた。あの弁舌が失われて、ただの銀幕俳優に成り下がる? スクリーンの中に閉じ込められる? ……俺には耐えられない!」

「なんだい。そうすると私は活動弁士でしかいられないのかな。無声映画は永遠には続かないよ」

「なら一緒に散ればいい。無声映画と心中した希代の活動弁士。その美談は永遠になる」


 熱のこもる守谷さんに対し、朱也は気だるげに息を吐いた。そのわずかに上下した喉元には、いまだ刃がぴたりと添う。


「偶像視されるのは慣れてるけどさぁ。まさかここまで熱狂的な人間がいるとは……しかも野郎」


 彼は呆れたように眉尻を下げると、べ、と舌を出した。


「変わらないものを愛するのは結構。人様の勝手だけど、私としては移ろうものだって愛して欲しいね。全てが消えて無くなるわけじゃない。褪せたと思うのも死んだと思うのも、それは君の心だよ」

「詭弁だ」

「君の好きな華鳥朱の思弁さ」


 そう言って、ふっと笑った次の瞬間、倶楽部内のシャンデリアが一斉に明かりを点けた。橙を通り越した眩しい白光が地下を覆う。

 朱也は大きく息を吸い込んだ。


「ああ、困った、困った! 今ぞまさしく、『これにて一巻の終わり』でございます!」


 左手を胸に当て、グラスを持った右手は宙に掲げて。高らかに活動弁士は言い放った。

 本職の、映画の佳境を解説する際の有名な言い回しだが、直前の点灯とその声音で空気は一変し、私だけでなく、周囲も――とりわけ守谷さんがたじろいだ。


 相手の拘束する腕がゆるんだのを、朱也は見逃さなかった。隙を突いて、手の甲で守谷さんの顔面をばちっと叩いた。鮮やかな裏手打ちが決まると、すかさず男の腕をすり抜ける。


 守谷さんの悲鳴に近い、短い叫び声が響いた。そのまま逃げようと身を離した朱也に、彼は追うように腕を振り上げた。掲げられたナイフの切っ先は、真っ直ぐに朱也を向いて、青白くぎらつく。


 私の手など、まるで届かない。

 振り下ろされる。


 頭をよぎったのは、惨たらしい光景。

 堪らないほど恐ろしくなって、私が目を逸らそうとしたとき。何か大きなものが動き、私と彼らを遮った。私の視界を染めた濃青の中に一点、優しい紅が――竜の付ける七宝のカフスが瞬いた。


 竜、と叫ぼうとした声は、出たのか出なかったのか。

 突如つんざいた破裂音によって、全ての音がかき消され、霧散した。


 ひゅっと一度息を吸い込んで、冷静さを保とうと胸に手を当てた。はやる鼓動を押さえつけると、その行為が暗示的でも、事態が見えてくる。

 弾薬の爆ぜる音、おそらく銃声が耳の中でがんがんと反響する中、(おもて)を上げると竜の顔があった。厳しい顔をした彼はしきりに私の前後を見ている。前の様子は竜の体に阻まれて分からない。ならばと思い、恐る恐る後ろを振り返ると、


「しまった。威嚇のつもりが、本当に撃ってしまった」

「く、頸木……?」


 給仕に扮した頸木が突っ立っていた。

 黒い給仕服にきっちりと身を包んだ彼は呼名には答えず、自身の持つ銃を弄りながら、あらぬ方を眺めている。いつも通りなのがかえって恐ろしい。突如現れた知人にも(おのの)いていると、低い呻き声が耳の端を掠め、次いで朱也の声が聞こえた。


「ああ、びっくりした! 誰かな君は!」


 跳ねるような元気な響きだ。そうなると、苦しげに呼吸するのは守谷さんだろうか。頸木の撃った銃弾が当たったのかもしれない。

 頸木の後ろから、スーツ姿の従業員が数人駆けてきた。暴漢の登場ではなく響いた銃声によって、倶楽部内は混沌に陥っていた。身支度もそこそこに、店外へと急ぐ者が多い。

 怖いのは銃弾か、あるいは。


 私たちの傍にいた玉利様が表情を硬くした。


「これは……」

「こんな時勢だ。特高が来るでしょうね」


 急いたように靴音を鳴らし、朱也が現れた。竜の横から姿を見せた彼はぴんぴんしていたが、表情には少なくない焦燥の色が滲んでいた。


「二人は早くお逃げ。店を出たら今日は横浜で宿を取りなさい。きっと駅も慌ただしくなる」

「だが――」

「特高の取り調べなんて受けたくないだろう。それに、ここに女性を連れてきたと倶楽部に漏れると、私が大目玉を食らうんだよ。むしろ特高より厄介だ」


 言っていることが全てなのだろう。必死の圧に、私はただ頷くしかなかった。「また必ず」それだけ伝えて、竜と出口に向かおうとすると、しなやかに玉利様の足が動いた。


「では俺も失礼させてもら――」

「玉利殿は純粋な会員でありますし、目撃者として証言いただけませんかね。私と彼らしかいないのは至極不安というか、どの方面にも顔がきく貴方がいると、切り抜けるのも楽そうだ」


 言葉を遮った朱也は、共謀に誘うような悪い笑みで、玉利様に近寄った。朱也の手はさりげなくだが、しっかりと相手の腕を掴んでいる。玉利様は嫌がる素振りを隠さなかったが、間もなく、渋々といった風に了承した。


「仕方ないな。……竜治くん、ちょっといいかい」


 竜を呼び寄せた玉利様が何かを手渡し、耳元で二言三言囁いた。竜は神妙な顔で頷くと、恭しく礼を言って、私の方へ振り返る。


「行きましょう。沙耶子さん」


 数歩歩幅を合わせれば、共に走るまであっという間だった。面倒事を避けんと逃げ惑う客に紛れ込み、じきに抜けると、夜の港町を再び駆けていく。

 店から十分に離れたとき、私は口を開いた。


「庇ってくれてありがとう、竜」

「あんなの庇ったうちに入りませんよ。怖かった……沙耶子さんに何かあったらどうしようって、それだけが怖かった」


 小さく呟いた竜は、それきり何も言わなくなった。彼にはどうやら目的地があるらしい。私たちは真冬の冷え切った横浜の道を、黙々と進んでいった。乾いた口内が痛く、肺は凍てつくようだった。

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