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【17】夜光虫倶楽部(4)

 ほどなくして、朱也が席に帰ってきた。


「どうだった、なんて聞くまでもないね! あの最高の演出で仲直りできなかったなんて言わせないよ」


 私たち夫婦の顔を交互に覗きながら、得意気に彼は言った。そして椅子に背もたれる玉利様にも「どうも」と頭を下げて、席に着く。

 空になったステージの間を持たせるように、クラシックが流れ始めた。音質からしてレコードだろう。ダンス楽曲でないのは、ここが男性専用の倶楽部だということも関係しているのかもしれない。


「お待たせしました」


 四人が揃ってすぐに、消え入りそうな掠れた低音が卓に落ちた。声の主は案の定、先ほどの給仕の男だ。じろりと玉利様が給仕を見やって、口元だけで微笑んだ。引き攣った笑みで応じる給仕の銀盆には、ハイボールが三つ。


 ――気のせいだろうか。


 男によってカクテルグラスが一つ一つ、三人の元に慎重に置かれる中、蝋燭の灯明がお酒を透かした。それらの内の一杯に、わずかだが濁りがある。勘違いだ、目のかすみだと言われればそうとも取れるほどの、ほんの少しの汚濁が。


「華鳥様、どうぞ」


 私が注視したグラスは、席をぐるりと半周した給仕によって朱也の元に置かれた。砕氷の入った背の高いグラスはやや汗をかいている。給仕がいなくなってからでも、濁りのことを朱也に話そうか。

 そう思ったとき、朱也が給仕に向かってにこにこと頷いた。


「うん、わざわざ席を回ってきてくれて嬉しいね……感心したから、それは君が飲みなさい」

「えっ」


 話を振られた男の体がびくりと震えた。


「下げ渡しはいただくものだよ。ここの給仕なら皆ありがたがって、その場で飲み干す(・・・・・・・・)ものだけどね」


 援護するように玉利様が(うそぶ)いた。「ほら」と彼は顎を上げると、威圧的な双眸で男を見据えた。闇中の発光を映し取った瞳は、冗談の通じない真剣みと、ともすれば嗜虐の色を含んでいて、


「……」


 私や竜、そして当の男も黙りこくってしまった。

 ガタリと椅子を揺らして、朱也が立ち上がった。


「華鳥朱という外面(そとづら)の名前など、ここでは呼ばれたこともないな」

「そうでなくても怪しい。どうやって入り込んだ鼠かね、君は」


 疲れたように前髪をかき上げる朱也に続いて、玉利様が鋭く息を吐く。只事では済まない。直感的にそう思い、私は絨毯につけた足の指に力を入れた。

 みるみるうちに顔色を失った給仕の男は、今度は焦ったように卓上へと腕を伸ばした。向かう先には朱也に仕向けたハイボールがある。


「待った」


 朱也の手が素早く動き、グラスを上から覆った。


「捨てるのは厳禁だよ。大事な証拠品だからね」

「――ちくしょうっ」


 男は悪態吐くと、朱也へと大きく振りかぶった。二人の体がもつれ合い、ぶつかった卓が大きく倒れる。カクテルグラスや蝋燭立てがけたたましく割れ、灯火がふつっと消えた。慌てて立ち上がった私や竜、そして玉利様も、急変した事態を目の前に眺めることしかできない。


「もう保身なんかどうでもいい! 貴方だけは、今この場で殺す! 全ての作品を、これで、終わらせる!」


 朱也を腕で拘束する男の叫び声には、覚えがあった。


「この声……!」

「よくよく見たら、守谷さんじゃないですか」


 私にじりじりと体を寄せながら、竜が呟いた。そうだ。顔立ちが誤魔化されていて今まで気付けなかったが、体格も声も、隣家の居候のもの。


「この下手くそな変装男は君たちの知り合いかい」

「ああ。お隣さんだ」


 答えた竜の表情は複雑そうだった。


「へぇ、そりゃあ凄い偶然だね」


 緊迫する空気の中、朱也だけが素直に驚いた様子で喋り立てていた。しかし、その首元にはポケットナイフの刃があてがわれている。


「映画製作会社に火炎瓶を投げ込んだのは君かい? 私に俳優になって欲しくないというのは」

「俺だよ」


 朱也の背後から腕を回す守谷さんは、きつく睨み上げるようにして言った。

 剥き出しの刃から一寸でも逃れるように首を反らしながら、朱也は瞳だけをすっと守谷さんに向ける。甘やかな造形の双眸が、このときだけは無感動に瞬いた。


 この騒ぎだが、店内の照明はまだ点かない。周囲の卓に灯った火がちりちりと、短くなった蝋を溶かすだけだ。逃げなかった他の客や店員たちはみな、遠目でこちらを眺めている。


「花江さんは――」


 知っているのだろうか、と私は思考を巡らせた。一緒に映画を観に行くくらい、二人とも華鳥朱が好きだったはずだ。一連の犯人が守谷さんだったとしたら、たとえ共犯でなく、動機の一部という形でも、彼女が関わっていてもおかしくはない。

 思わず口走った名前だったが、私のそれを聞き取った彼は、不快げに声を荒らげた。


「はぁ? あの女が関係してるって?」


 普段の丁寧さの欠片もない。人が変わったような態度だが付け焼刃にも見えず、いやに板についていて、これが守谷さんの素なのかもしれないと思った。本来の粗暴さで、彼は吐き捨てた。


「そんなわけあるかよ。嫉妬とか抜かすなら、殺すのは花江の方だ。鶺鴒の名前の方と一晩遊んだからって、調子付きやがって」


 え、と朱也に視線が集まった。予想外の告発で表情を引き攣らせた彼は、目を泳がせながら、「ちょっとした勉強のつもりで――最近はそういうの、止めたんだよ」と取り繕うように言った。

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